2012年1月15日(鷺沢朱理)
私はまだ短歌界にあるものとしては若年に入るので珍しがられるのだが、同世代の歌人が求める「等身大の自分」「教養への疑義反動」といった平成短歌特有の現代性とは異なる現代性を探る試みをひとり行っている。その一つとして、歌に壮麗さや威厳、洗練、透徹した品位を再構築しようとする動きに注目している。昨今の若手が最も苦手とするものにスポットを当て続けるのである。それらは近代がやり残したまだまだ未完のプロジェクトであり、現代に「及ばぬ高き姿」(藤原定家)を求める歌の系譜図を書かねばならない。
本誌一月号から、
しのびよる五衰かしこみこの夜はひとりの家をながく清めぬ 斎藤すみ子
五衰とは、仏教用語で命尽きんとする時に示される五種の衰亡の相。「かしこみ」、つまり畏れという語が出てくるところに感嘆した。
右の病者(ばうざ)ひだりの病者熟睡(うまい)する入院の夜ぶか掻き垂るる雨 水上令夫
入院中、雷雨がやってきた。「掻き垂るる雨」は、辞書的には一面に雨が降るの意だが、雨が窓ガラスを引っ掻くように打ち付け、へばりつくようにだらだら垂れ落ちる様も想起できる。この複合動詞は雨音を恐ろしいまでに活写している。恐ろしいまでにと感じるのは、四句までの荘重な古語文体の効果にもよろう。この歌人の音響・色彩・空間表現は文体の試行錯誤に加えて他の歌人を圧倒するような独自性がある。
角川『短歌』一月号より、
銀しぐれ止みたる雲の透き間よりすうと光の手が伸びてくる 田宮朋子
しもつきのゆふべ眉めく虹かかり天ほんのりと淡粧(たんしやう)をせり
色彩の美を引き出そうとした一連。一首目の「透き間」には銀と光のイメージをより効果的に表そうとした工夫がみられる。二首目は、色彩にとって必須の濃淡の表し方を言葉で描こうとする試みが見て取れた。