2014年4月15日(長谷川と茂古)
桜だ、菜の花だと浮かれていたら、あっという間に半ばを過ぎてしまった。結社誌4月号は、「新人賞・奨励賞受賞者競詠」の特集から。
目をひとつ盲ひたる祖母ふたりゐて一つづつ明く眼で見あふ 堀田季何
割箸にゑぐりとられし眼球はこぼれおちたり別の魚に 同
レオノール・フィニの絵に、女性の眼と魚の目が一つになっているのがあったと記憶しているが、この二首を読んだとき、ふとその絵が浮かんだ。祖母たちの歌もどこか異界のような趣がある。「祖母ふたり」とあるのに、なぜだか双生児のようなイメージがわく。「ひとつ」「ふたり」「一つ」という数でつなぐというのも面白い。二首目、焼魚か煮魚であろうか。箸でとった魚の目が、別の魚のところに落ちた、という。「眼球」の動きだけだが、ここには、二重の目がある。魚の目とそれを追う目である。目の迷宮に入ったような錯覚に陥る。
ゆふぐれのちりゆく花を旧かなのやうに思ひてただ眺めたり 中畑智江
綿の国あらばゆきたし春が好しひねもすわれは眠りてをらむ 同
日夏耿之介には、新仮名遣いの本を川に流した、というエピソードがある。旧仮名遣いを「旧かな」というのはどうか、という議論も既に過去のもののようで、こちらは太陽が落ちてゆく頃に散る花が「旧かな」のようだという。時というのは、そういうものかもしれない。「綿の国」からすぐに「綿の国星」が浮かぶ。懐かしいなあ。作者が、大島弓子の漫画を読んだことがあるのかどうかは、分からない。けれども、綿のふわふわ感と春、眠りはぴったりくる。
はちゃめちゃに生くる勢い見せて逝くやっぱ好きやねんそんなたかじん 三枝貞代
やしきたかじん、中島らも、二代目桂枝雀。時々、こっち(現世)に帰ってきたらええのに、と思う。
大根と卵のおでんに升の酒 越さねば乗れぬ駅前の店 中山哲也
なるほど、酒のあてに大根と卵。駅前においしい店がある。その誘惑にのったり、のらなかったりして、其の店を過ぎないと電車には乗れないのだ。コンビニのおでん優勢のなか、「駅前の店」というところにも味がある。
人の世に往復切符のあれば購う ふうわりと降り出したのは雪 山田峯夫
ここで詠われている「往復切符」とは、おそらくこの世とあの世を往復できる乗り物の、という意味だろう。なぜそう思うのか。それは下の句の「振り出した」雪による。天界から降りて来るものが結句にあることで、天と地を往復するものだと思いこんでしまう。○○と△△までの往復切符、とすると説明的になる。省略することで大胆な歌になったのではないだろうか。
総合誌は、「短歌往来」5月号より。
無知は罪、あるいは私を他者として承認できる人はゐますか 菊池 裕
ネットなら饒舌だけどほんたうのきみは何処にも居ない何処にも 同
もしきみに希望があれば晩年は終身刑として娑婆にゐる 同
「シェフチェンコ」一連より引いた。三首の結句をみると「ゐますか」「居ない」「ゐる」。「ゐますか」という問いに対して、二つの答えがかえってくる。表現するということは、「私」という病にかかるようなものかもしれない。短歌においては、「私」を問う姿勢が歌になる。「もしきみに希望があれば」を、「私」を問う姿勢があるならば、と筆者は読んだ。終身刑として歌を詠み、娑婆にいるな、わたしは。(そうかな)。