2015年2月1日(雲嶋聆)
明けたと思ったら、あっという間に一ヶ月が過ぎてしまった。結社誌は1月号から。
もしかして妄想こそが平凡な生活に詩を生むんじゃないの(大澤澄子)
一時期CM 等でよく流れていた「もしかしてだけど、もしかしてだけど、~じゃないの」というフレーズが二重写しに浮かび上がってきて、思わずくすりとしてしまった。「想像」ではなく「妄想」としているところが、雰囲気を引き立てている。
マトリョーシカのやうな羊よ北国の虹をみてゐる女(をみな)見てをり(伊神華子)
ロシア出身のマトリョーシカは角を生やしたパペットである。「マトリョーシカのやうな羊」から「北国の虹」が導かれるわけだが、同時に村上春樹の小説も連想される。「羊をめぐる冒険」は確か行方不明になった妻を探しに北海道へ出かける男の話だった。
晩秋の薄き日差しを受けながら洋梨おだしく卓に坐しをり(吉田佳子)
セザンヌの静物画のような歌である。「晩秋の薄き日差し」を受けているのが「林檎」でも「蜜柑」でもなく「洋梨」であるところが、尚更このフランス人の画家を彷彿とさせる。彼の絵の質感と、「洋梨」という言葉の質感もまた親和性が高いように思う。
繊細でどこか危うく浮遊する音を捉えむ 謎めいた少女(中野實恵子)
この歌はドビュッシーを連想した。上の句の「繊細でどこか危うく浮遊する音」という表現からドビュッシーの世界が導かれる。結句の破調の座りが悪い感じはまさに「牧神の午後への前奏曲」の不安定な感覚そのものである。
歌集は年末に復刊された水原紫苑の第一歌集「びあんか」より。
偽りはにんげんにこそ無きものか雨夜(うや)の桜桃消え失せにけり
風狂ふ桜の森にさくら無く花の眠りのしづかなる秋
一首目は太宰治を詠んだものだろうか。白樺派の文学を偽善と嫌い、露悪的な作品も多く残した太宰は、命日が桜桃忌と呼ばれるほど桜桃が好きだったという。
二首目は、太宰と同じ無頼派として有名な坂口安吾だろうか。狂気と美の結晶体ともいうべき短編「桜の森の満開の下」の世界が行間に見え隠れしている。