2015年5月1日(長谷川と茂古)
さて、五月。本当ならば、1日にアップロードされるはずだから、結社誌は未着なのだが事情があって、10日に書いている。とほほ。そんなわけで結社誌5月号より。
促音を枝に連ねて猫柳の銀ねず色が謳ひはじめる 洲淵 智子
手袋を買ひに出でたる子ぎつねが寄り道しさうなきさらぎ月夜 同
一首目、ねこやなぎの花穂を促音としたところが面白い。小さくて、っっっ・・という感じがとてもよく分かる。ねことねず(み)の組み合わせが謳うように、心はずむ気持ちと重なる。三句の六音がなんとも惜しい。二首目は、新美南吉の「手袋を買いに」からの発想。手袋というと、ウクライナ民話の「てぶくろ」もいい。結句、雪の朝手袋を買いに行く冬ということで二月の異名「きさらぎ」を用いたのだろうが、ちょっと引っかかった。現在は、新暦二月のことも「きさらぎ」と言って間違いはないようだが、もともとは旧暦二月のことである。現在の三月下旬から四月上旬にあたる。西行の「きさらぎの望月のころ」は、今年でいうと4月4日。南吉の描いた子ぎつねの童話の世界と「きさらぎ」の感覚がちょっとずれているように思う。ここ十年ほど旧暦カレンダーを使っているせいか、気になってしまった。まあ、新暦も旧暦も「きさらぎ」で良しとしているのが奇妙な感じだ。
かそかなるかをりたたしめ柊のはなは消えゆく言葉のごとし 安藤なを子
亡き母の励ましくるる声かとも雉鳩われの身に近く啼く 同
柊の花は小さいながらも芳香をもち、楽しませてくれる。人が発する言葉と同様にはかないものだとする作者。お母様を亡くされて一人で過ごす時が連作「雉鳩」に表現されている。
二首目、結句の「われの身に近く啼く」がいい。亡き人を思うとき、姿を変えて近くにいるような気がするのはなぜだろう。
続いて「短歌往来」5月号より。特集は「海外在住歌人のうた」。
ニューヨーカー(紐育人)東京人によく似をり 足早、渋色、素つ気なさなど
青山 汀
(紐育人)は読むのだろうか、たぶん読まなくて良い気がする。「ニューヨーカー」はルビのような感じか。詠んでいる内容はよく分かる。「渋色」とは服の色か、街全体の感じか。作者が暮らすロスアンジェルスの明るさに比べると東部の街は、そんな風にうつるのだろう。
青山氏は、山川菊栄の姪にあたる。水戸藩士、儒学者の青山家の人である。時間があれば、近代の歴史をふまえつつ、ご家族の歩みや、アメリカでのことなど伺ってみたい。昨年末、歌集『白木柵の街』を上梓された。結社誌六月号で、書評特集が掲載される予定である。