2018年7月15日(吉村実紀恵)

シェイクスピア『マクベス』は名言の宝庫である。一人の人間が権力への欲望に駆り立てられ、王位を簒奪し、罪悪感に苛まれながらやがては破滅への道をたどる。そこで描かれるのは時代を超えた普遍的な人間の本質であり、登場人物のセリフのひとつひとつが、今という時代を生きる自分自身を顧みずにはいられない重さで響いてくる。「血の川にここまで踏み込んだなら、引き返すもの億劫だ。むしろ渡ってしまった方がいい」というマクベスの“血の川”を、自分にとってもっと身近な言葉に置き換えたなら、そのような選択を繰り返しながら生きてきたのだと気づかされる人は多いであろう。

雲洩るる光の紗幕 この世といふ一人舞台のホリゾントとも  大塚 寅彦
四部五裂してゆく己が影を踏みマクベスはあり死への舞台に  同
(結社誌7月号)

魔女の予言と言葉巧みな夫人の教唆により、王を暗殺して王位に就いたマクベス。しかしその後は常に不安と死の幻影に脅かされることになる。様々な局面で予言を与える魔女、自分以上に権力の魔に取り憑かれた夫人。そして自分が殺めた戦友の亡霊。マクベスはそれら全てに「四部五裂してゆく己が影」を見たのであろう。

「この銃を取れ」とふ如き音立てて自販機吐けり缶の珈琲    同

思い出すのはかつて一世を風靡したCMのフレーズ「24時間戦えますか」である。今やバブルの崩壊により、スポットライトを浴びていた企業戦士たちは表舞台を去った。人々が熱狂から覚めたとき、この世という舞台の片隅には引き返し損ねた三文役者が一人、佇むばかりである。あの栄養ドリンクは、バブル期にふさわしい金色のラベルだった。「人生は歩き回る影法師、哀れな役者だ」という深いため息とともに、無慈悲な音を立てて吐き出された缶コーヒーは、黒く冷たくひかる銃身のようであっただろう。そしてその銃口は、「引き返そうとする自分」に向けられているのかもしれない。

次に挙げるのは北原白秋の歌、

夕されば涙こぼるる城ヶ島人間ひとり居らざりにけり (北原白秋『雲母集』)

城ケ島は三浦半島最南端にある、神奈川県最大の自然島である。島の南岸一帯は断崖になっており、その上をウミウが旋回している。海岸のいたる所には、約1000万年かけて堆積した地層が露出しており、さながら白亜紀にタイムスリップした気分である。

いつしかに春の名残りとなりにけり昆布干場のたんぽぽの花

1910年、北原白秋が初めて三崎を訪れた時に詠まれた歌である。三崎、城ヶ島といえば、白秋の愛した地としても有名だ。風光明媚な漁村の光景を、穏やかな心境で堪能した様子がうかがえる。 

しかしそれから二年後の「桐の花事件」を経てふたたび三崎を訪れた白秋の心境は、まるで違ったものになっていた。

一月の二日に私は海を越へて三崎へ行つた。死なうと思つたのである。恐ろしい心の
嵐が凡(すべ)ての優しい哀情を無残にも吹き散らして了(しま)つた。(『朱欒』)

「桐の花事件」とは、隣家の妻であった松下俊子と恋愛関係に陥り、俊子の夫に姦通罪で訴えられ拘留された事件である。この頃の白秋は、第二詩集『思ひ出』の成功により、詩壇での地位を不動のものとしつつあった。そこから一転、世間の指弾を浴びて深く傷ついた白秋は、自殺を考えて三崎を訪れたのである。

しかしふたたび目にした三崎の海と空と光が、白秋を生の側に踏み止まらせた。自然の生命力に囲まれて半月ほど滞在するうち、死のうとしていた気持ちは消えていった。

しんしんと湧きあがる力新しきキャベツを内から弾き飛ばすも
地面(じべた)踏めば蕪(かぶら)みどりの葉をみだすいつくしきかもわが足の上

釈放されて俊子と再会した白秋は、俊子が横浜の外国人船員向けのホテルに勤めていると知る。さらに俊子は肺結核を患っていた。夫と離婚した俊子が金に困って身を持ち崩したのでなはいかと恐れた白秋は、同情心もあり俊子と結婚。死の淵から生還した同年5月、俊子と両親を伴い療養のため三崎に移住、心機一転を図った。

深みどり海はろばろし吾が母よここは牢獄(ひとや)にあらざりにけり

歌集『雲母集』ではほぼ全篇にわたり三崎での生活が詠われている。白秋の三崎滞在は約9ヶ月間と短いものだったが、「初めて心霊が甦り、新生是より創まつた」と記すほど、三崎での生活は詩人の人生に重要な位置付けを持つものであり、かつ宗教的な目覚めのきっかけとなったとも思われる。

海の中に光り輪を画く澪のすぢ末はわかれて行方知らずも
海の波光り重なり日もすがら光り重なりまた暮れにけり

一方の俊子だが、評伝によって見解がけっこう異なる。無知でワガママ、物欲の激しい悪女ぶりを強調するものもあれば、あくまで若き白秋の恋女房としてのイメージに留めるものもある。結局、二人の結婚は一年ほどで破局を迎えた。

二年前の5月、城ヶ島を訪れた。頭上にウミウの視線を感じながら、黒々と広がる岩礁地帯を灯台に向かってひたすら歩いた。辿り着いた先のリゾートホテルは、連休明けで閑散としていた。敷地内にバブル期の名残を感じさせる欧風の庭があったが、草は伸び放題、池の水は緑色に濁り、その寂れ具合たるや相当なものだった。それでも私はその光景に何か慰められるような、懐かしい気持ちすら覚えた。城ヶ島から帰ったあと、俊子のその後について書かれた本を読んだ。肺病からは回復したものの、白秋への未練と恨みを託した歌を送ったり、金策のために医者の後妻になったりと、数奇な人生を送った。しかし晩年は仏縁に導かれ、お茶の先生になって穏やかに暮らしたようだ、とあった。

「桐の花事件」も、観光バブルの遺産も。しょせん人間の欲から生まれた営みなど、城ヶ島の岩場の潮溜まりにうごめいている小さな生物たちの営みと、何ら変わりがない。やがては風化し、地層を成す砂の一粒ほどの重さにもならない出来事なのだろう。これは私の勝手な想像だが、白秋が三崎で宗教心に目覚めたように、俊子にとっても三崎滞在は、その後の人生で得る仏心の下地となったのではないか。城ヶ島の悠大な自然はそれだけの力を備えていると、私は思う。

歌評(月2回更新)

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