2016年5月15日(雪村 遥)

まずは、結社誌『短歌』5月号から。

幽霊になつてしまつたみたいですユング先生アニマがゐません  雲嶋 聆
どや顔のランボー枕元に立ちアルファベットの色かぞへてる   同

一首目。ユング心理学における「アニマ」とは、男性の無意識のなかに存在する女性的原型のことである。人間は異性を内包することによって、自らの不足した部分を補っている、とユングは考えた。しかしこの歌は、ユングに対して「アニマがゐません」と訴える内容となっている。これはつまり、自己を補完して完全体とすることはできないという、根源的な欠落感を表しているのではないだろうか。幽霊になってしまったのはアニマであるのかも知れないし、アニマを失っている自分自身であるのかも知れない。主体の心理に関して色々な想像を膨らますことができる歌である。

二首目。詩人ランボーは共感覚者であった、という説がある。共感覚とは、ある刺激に対して異なる複数の感覚を生じさせる特異な知覚のことを指す。その一種として、文字を見ると色を感じる、というものがあるが、ランボーはこの共感覚を用いて「Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青」で始まる詩『母音』を書いたのではないかと考えられている。この歌の主体は、眠りの中で夢枕に立つランボーと対面しているのであろうか。その相手を「どや顔」と評している点に面白みを感じる。ランボーの紡ぐアルファベットが、ひとつずつ色を帯びながら枕元に散っていく様を思い浮かべた。楽しい一首である。

重機もて屋根剥されしビルの間の空きたる虚に昼月架かる   日比野和美
陽の当たる家に住みたしと母の声染みゐし壁が壊されてゆく  同

一首目。長年住み続けた自宅が取り壊されていく過程を詠んだ一連の冒頭歌。家とは単なる生活の場、というだけのものではない。自己や家族の心身を包み込む器であると同時に、長い年月の経過をものともせずに思い出のなかを自由に行き来できる、タイムマシンのような装置である。「家」という外形を失うことによって、却って「家」の持つ本質が浮き彫りになる。金属質の重機の量感と、淡い色合いの昼月が美しい対比を成しているが、そのふたつを結びつける虚空が、行き所のない喪失感を表しているように思えた。

二首目。高いビルに挟まれた家は、おそらくあまり陽が射し込まなかったのであろう。そのことを語る母の声が壁に染みこんでいく。何度も繰り返し話す母と、耳を傾け続ける子の姿がくっきりと浮かび上がる。壁は長き時間に耐え、周囲で繰り広げられる物語を吸い込んでいるうちに、やがて壁自体が記憶を持ち始める。たとえ壊されても、この壁はひとつのシンボルとして、作者の心のうちに残り続けるのではないだろうか。

次に、長谷川径子氏の第二歌集『固い麺麭』(本阿弥書店)から。

長谷川径子氏は昨年、中部短歌短歌賞を受賞された。『固い麺麭』は、詩情溢れる作風、印象的な言語感覚、随所にみられるユーモアのセンスなど、この作者ならではの魅力を味わうことのできる歌集である。

息を止め薔薇を切りおりつぎの花咲かせるために今の花を切る

私たちは日々の生活の中で、様々な「世代交代」に関する問題と直面する。政治や経済などの大きな話題のみならず、職場や家庭、学校などの身近な場所でも時として顔を出す問題であろう。次世代を確実に残すために、前世代のものに引導を渡さなければならない場合がある。こういった痛みを感じさせる数々の場面と、薔薇を切るという行為がオーバーラップする。これまで目の前で咲き続け、楽しみを与えてくれた花を切り落とすことは、哀しみとともに加害者としての罪の意識をも抱かせる。その罪の意識さえも自分のものとして背負い、前を向いて生きていくために「息を止め」て、決意をもって切るのであろう。この一言に、主体の胸の内を窺い知ることができる。

長い長い滑り台を滑りゆくだんだん小さな子供になって

この歌集は現実からふわっと遊離していくような、ファンタジー性を帯びた作品が多いが、そのなかでも特に幻想的で不可思議な印象を受けた一首。大人の自分が、滑り台を滑り降りるにつれて徐々に小さな子供になり、過去へとタイムスリップしていく。まるで夢の中のワンシーンのようである。これは現在の自分が、地層のように幾重にも折り重なった無数の「過去の自分」の集合体であることを示唆しているのではないだろうか。単なるノスタルジックな夢想ではない、知的な抒情性が感じられる。

ひとりずつ名前を呼ばれ消えゆくか万の彼岸花畔に手をふる

文字通り、畔にいた人々がひとりずつ立ち去っていく、という意味にも取れるが、彼岸花をモチーフにしているところから、この畔は此岸と彼岸の境目である、という解釈も成り立つのではないかと考えた。此岸にいる私たちは、彼岸にいる何者かに「名前を呼ばれ」た時にこの世を去る。それがいつなのかは誰にもわからないが、彼岸花の鮮やかな赤色が見送るなかで、ひとりずつランダムに消えていくのである。長谷川作品は全体を通して絵画的であり、豊かな色彩が至る所に散りばめられている。その色彩が、読み手に自由な想像の余地を残しながらも、次々と鮮烈なイメージを喚起させていくのである。

歌評(月2回更新)

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