2013年10月1日(長谷川と茂古)

早いもので、もう十月。『あまちゃん』が終わって淋しい昨今である。早速、結社誌は9月号から。

サンタ・ジュスタ螺旋階段その先に広がる夕景リスボンの街   柴田今日子

ひび割れし商家の壁のアズレージョいつの時代か色褪せし青     同

リスボンは坂の街である。勾配のある坂ではケーブルカーが活躍しているのだが、その街なかにあって、垂直に立つエレベーター、サンタ・ジュスタ。一首目にある螺旋階段は展望台へ上るためのものである。年代を感じさせるエレベーターと、歴史ある街リスボンの夕景をうまくまとめた作品。石畳の続く道を歩いていると、新しい建物より古い建物のほうが多い。アズレージョはタイルのこと。時代によってさまざまな模様の流行がある。ひび割れた壁の模様をみて、鮮やかだった時を想像する作者が浮かぶ。

大空はむらさきにして燕とぶ「誰が短歌を忘れるか」って叫ぶ  宇都宮勝洋

四十五歳三島自決の歳となる五衰を拒む死など選ばず        同

一首目は、引くまでもないが、春日井建先生の「大空の斬首ののちの静もりか没(お)ちし日輪がのこすむらさき」をふまえた歌。二首目の三島由紀夫は、『未青年』の推薦文を書いたことで、春日井先生を紹介する際、必ず登場する名前である。こちらも言うまでもないのだが、三島作品『天人五衰』をふまえている。ちなみに五衰とは、「衣服が垢で汚れる」、「頭上の花冠がしぼむ」、「からだが臭くなる」、「脇の下に汗が流れる」、「いるべき場所で楽しめない」という天界に住む人の、死の兆しであるという。どれもこれも、現世の人間が生きている証ではないか。作者は、今を受け入れ、誕生日を迎えた。「四十五歳」一連は、人生の折り返し地点を過ぎた、作者の決意表明と受け取った。

擬宝珠を手折ればはらり青時雨法要の日を待っていたかに  小川加代子

擬宝珠を活けて螢の掛軸を座敷に涼風通る六月みそか      同

一首目、上句で俳句のような仕上がりであるが、下句で「法要の日」と展開して歌がしっとりと湿気を帯びてくる。二首目、「掛軸を」に続くはずの「かける」は省略されているから、一字空けるとすんなり読めるかもしれない。季節感たっぷりで、畳の匂いがしてくるようだ。

かの日蜘蛛に食はれし蝶の叫喚の嫋嫋たるをわがうちに聴く  雲嶋 聆

疑ひもなく凛と咲く一輪の小さき花のまぶしかりけり      同

最初の歌の、初句6音に蝶のもがくような姿を感じた。長くしなやかに響く悲痛な声を反芻するような行為。自虐的でもあり、二首目と合わせて読むと、どこか悪徳めいた、エロチシズムを思わせる作品である。

続いて「短歌往来」10月号より。

激戦ありて日米の兵士あまた眠る硫黄島いまも隆起しつつあり   大林明彦

アメリカの男優が作りし「硫黄島」現場は違ふと老翁は泪(な)く   同

若い方には、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』でご存知の方も多いかと思う。硫黄島で日本軍は2万名を超える戦死者を出した。日本軍、と一言で云ってしまったが、軍人ばかりの集まりでは勿論ない。ごく普通の人たちが、家族のために戦ったのである。硫黄島には今も、滑走路(現在、海上自衛隊と航空自衛隊の基地となっている)の下に亡くなった方達の遺骨が掘り出されることなく埋まっている。今年4月、安倍総理大臣が硫黄島での戦没者追悼式に出席したことを、この滑走路に跪いた写真とともに報道されたことは記憶に新しい。一首目の「硫黄島いまも隆起しつつあり」とは、活発な火山活動で隆起している地形を実景としながら、戦後という時間は続いていると云っているようだ。

歌評(月2回更新)

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