2015年9月15日(神谷 由希)

蝉の声がいつしか虫の音に変わり、朝夕の涼しさが感じられる白露の候となった。思いがけなく続け様に台風が襲って来て、各地に大きな被害を齎している。天災、人災相俟って列島だけでなく、今や地球全体が悲鳴を上げているようだ。<人間は自然を必要としているが、自然は人間を必要としていない>と言う言葉が、深くこころに沈んで来る。移りゆく季節を友として月を愛で、虫狩を楽しんでいた古人のゆとりを思うべくもないが、せめて心静かに歌に向きあう時間を持ちたいものと思う。
 結社誌八月号より。

鯵一尾捌けば俎板血ぬらるる人切りきざみしは乙女子にして     橋本 倫子

近頃は、短絡的に、あるいは衝動的に殺人に向かう傾向があると言われるが、作品に取り上げられたのは、佐世保の同級生殺人事件であろう。仲よくしてくれた同級生を殺し、遺体損壊までした情況は、遡っての奇行の数々や、父親の自殺など猟奇的に伝えられたが、今や日々新たに起る犯罪に、埋もれつつある。上句の<俎板の血>は、少しつきすぎの感があるが、難しい題材を取りあげていて、そこに凄惨な事件と、少女のイメージの間にある作者の違和感を見るような気がした。

怪獣のごとき名なればピカドンの響きを少年われは好みき    雲嶋 聆

ある世代からは反発を受けそうな素材を、苦もなくさらりと詠んでいて、そんな時代になったのだと言う思いと共に、久びさに怪獣ブームの頃を思い出した。当時<スペル星人>なる宇宙人が登場し、怪獣カードかなにかの説明に<ひばくせい人>とあって大いに批判されたことがあった。素直ながら少々怖さを感じる作品ではある。

宿敵という語を我は〈はは〉と読む爆ぜる如くにけぶり咲く櫨  竹内 美香

近年<母と娘のクライシス>が多く語られ、本も出版されている。短歌の中に詠まれる<はは>は、概ね温かく、優しく、懐かしさに溢れている。<はは>との関係を、これ程露悪的に曝す作品は少ないのではないだろうか。下句の<けぶり咲く>が、<爆ぜる如くに>の寓意を弱めて終わっているようにも思うが。

南洋に台風ひとつ生まれる日榕樹の下の人の飲食    三宅 節子

<南洋>と、どこか豊かでのびやかなものを想像させる言葉で始まり、台風が生まれるという童話的な展開が面白い。ガジュマルの下でのんびり飲んだり食べたりしている人々の様子が見えてくるようだ。

百日紅の花はしずかに降りつもり華やいでいる放置自転車   安田 和代

日常なにげなく見逃してしまうような情景を、センシティブな観察眼で捉えている。百日紅のはかなげながら鮮やかな紅と、放置自転車との対比が、作品の中で微妙な調和を保っている。

続いて総合誌「短歌研究」九月号、短歌研究新人賞を受賞した「さなぎの議題」遠野真
の作品より。

肉親の殴打に耐えた腕と手でテストに刻みつける正答
わたしだけ長袖を着る教室で自殺防止のテーマが決まる
ささめごと ひかりを産んでよかったとおそい風吹く夢はまひるま
抜け殻は子どもだ泣いてしがみつき夕立が来て蔦を叱った
おかあさん白線ちゃんとわたろうとしたよわたろうとした

既に選者が一連の作品の内包する、ある時期ある環境に置かれた子供たちの持つ、孤立感、自殺願望、肉親から受ける虐待による愛憎のねじれなどについて触れている。従来、比較的淡いタッチで、青春期の感傷、悩み、恋などを語って来た若い人達に続いて、重いテーマを感覚的な言葉で歌う傾向が現れて来たのだろうか。読み手が生々しい哀傷を感じる事があっても、作者はあく迄冷静で、観察者の視点を失わない。
他にも候補作の月野桂作品「階段の子ども」、

歯みがきを教えず歯医者にも連れていかない親の子どもの歯なし
あやとりの橋の向こうにえいえんの子どもが住んでいる泣いている

また、北山あさひ作品「風家族」、

母さんが父さんにバットを振りかざすあの夜のこと 家族はコント
他人から他人に渡る体温の私たち陽当りのいい崖

等々に見るように、家庭内暴力やネグレクト、崩壊家庭の問題が、絶対的主題として取りあげられている。読むにつれて、肉体的な切迫感と共に、作者の悲鳴が聞えて来る感覚がある。かつて斉藤斎藤が「渡辺のわたし」で家庭内暴力を詠んだとき、虚構ではないかという意見も出て、その部分については余り語られなかったような気がする。現在、作品の上でのこのような告発は、あらゆる意味で私たちにショックを与えずにはおかない。

歌評(月2回更新)

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