2017年4月15日(雲嶋聆)

毎年、この季節になると名古屋の鶴舞公園は、満開の桜、散り行く桜、桜のさまざまな姿を見ようとやってきた花見客で大変な賑わいを見せる。中には、ブルーシートを広げるのみならず、ダンボールで手製の椅子や机を拵える本格派もいて、ともすれば桜を見ているより桜を見に来た人を観察している方が楽しいのではないかと思われるほどである。

私はあまり花見というものをしたことがないが、いわゆる桜の名所と呼ばれる場所は、どこもそんな感じなのだろう。

昨年の末に亡くなられた稲葉京子さんの歌に、桜を詠んだ、こんな歌があった。

抱かれてこの世の初めに見たる白 花極まりし桜なりしか(『槐の傘』)

彼女の追悼号となった結社誌の今月号にも代表歌のひとつとして採られているこの歌からは、しなやかだけれども、どこかはりつめた空気が立ち上っている。次の歌へいくのを躊躇わせるような不思議な吸引力をもっている。

とはいえ、いつまでもこの歌にとどまっていても仕方がないので、次へいく。

さくらの季われは仕事を失ひて花冷えの中ひざまで凍る  鷺沢朱理

「さくらの季」は年度の始まりでもある。新入生や新入社員の、新しい環境への不安を隠そうとしているかのように晴れやかな表情が、この時期あちらこちらに見られる。彼らの明るさ、晴れがましさは、新しい人間関係への期待や希望に敢えて身を任せようとする意志の表れなのかもしれない。

そんな賑やかで華やいだイメージを初句が喚起させるためか、「仕事を失」った作者の孤独が、ひんやりとした手触りをもっていっそう鮮明に浮き上がる構造となっている。そして、その孤独を補強するかのように、「花冷え」や「凍る」といった寒さに関係する言葉が下句に配されている。これは私の感覚の恣意に過ぎぬかもしれないが、結句の「ひざ」という言葉の響きも、いかにも寒々としていて、一首の空気と調和しているように感じられる。

きつねハト私の影に重なって黒い動物くるくるおどる  西田くろえ

孤独によって調律された歌の次は、想像の枝葉を楽しさの方へ伸ばしてみた一首。狐と鳩と私がまるで一体の「黒い動物」になって踊っているような楽しくも不思議な世界を見せている。文章であれば、まず「きつねやハトが」と書かれるであろうところを、三十一音に合わせるためだろうか、「きつねハト」と助詞が省略されている。助詞の省略は舌足らずなリズムを作り出す。このようなリズムは、往々にして表現したいことが言葉をはみ出してしまっている印象を読者に与えるが、この歌の場合は、目に見える現実という枠組みをはみ出してしまったみたいな歌の内容とかえって合っているように思う。

ひらがなカタカナ漢字を並べた「きつねハト私」という表記にも工夫が見られる。

総合誌は『短歌研究』の4月号から。

声にならない悲鳴のやうに水仙は咲いてしづかな瑞穂区の午後  荻原裕幸
真夜中の書斎を出ればわたしからわたしを引いただれかの嚔     同
この私はどうしようもなく春の雪どうしようもなく荻原裕幸     同

二年ほど前に、短歌を分かるとはどういうことかという議論がなされたことがあったが、そのきっかけになったのが、角川『短歌』に発表された服部真理子の連作「塩と契約」中の「水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水」という歌に対して、同時批評を寄せた小池光(若手の作品にベテランが同時批評を寄せるという企画だった)がまったく理解できないといった趣旨の評を書いたことだった。

一首目は、当時の議論の記憶が背景にあるのかもしれない。「声にならない悲鳴」が歌になる前の、未だ言葉という形を与えられない感覚の混沌を暗示しているように思われる。

二首、三首目。短歌は〈私〉の文学であるということを聞いたことがあるが、そもそもそこで詠われる〈私〉とは何か、そんなことを思った。「わたしからわたしを引い」て、なお残る誰かの存在を詠んだ二首目からは、ふだん意識している〈私〉というものの薄氷のような危うさと〈私〉を動かしているものの底知れぬ不気味さを、「どうしようもなく」のリフレインと「春の雪」「荻原裕幸」の脚韻によって破調を補うリズムのよさを獲得している三首目からは、〈私〉が〈私〉でしかないことの違和感・もどかしさを感じた。

歌評(月2回更新)

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