2013年8月15日(長谷川と茂古)

暦の上では秋なんだぞ、と思いながら酷暑に耐えている。むむ。まずは結社誌8月号から。

ビルにビル建てど「本郷界隈」といふとき江戸の霧のふかさよ   古谷智子

大火つづきしはるか大江戸本郷の「かねやす」までは土蔵の造り    同

もの言はばソプラノならむ桜錦のちひさき口が閉ぢて開いて      同

連作「金魚坂」より引いた。今年5月の末に、名古屋から、中部短歌編集発行人である大塚寅彦さんが東京へみえて、本郷で歌会を行った。東京での歌会は、はじめてのような気がする。大塚さんの歌評を直に伺うことができたし、編集委員の古谷智子さん、菊池裕さんも参加され大変有意義な時間を過ごした。「金魚坂」は歌会後、懇親会を行った場所である。近くには、菊富士ホテル跡、「一葉の井戸」などがある。一首目、本郷という地名が持つ、都市としての江戸、近代の雰囲気。アスファルトの道にビルが連なる街の、目には見えないが、どこか江戸と地続きのような感覚。それが「江戸の霧のふかさ」と表現されている。二首目、「本郷もかねやすまでは江戸の内」という川柳をふまえた歌。三首目、今では一軒のみが残る金魚を売る店「金魚坂」(食事もできる喫茶を併設している)。金魚はもともと鮒(黒色)として生まれるとか。どんな模様になるのか、それが通の楽しみの一つだという。「桜錦」は平成になってから承認された新しい品種で、人気がある。金魚が声を発したならば、どんなだろう。

緋牡丹は花びらの襞に陽の温み抱きたるままひと日閉じゆく   三枝貞代

夕暮れに黄色の薔薇のひと枝を切れば真昼の熱の吐息す       同

一首目、「花びらの襞」とあるからサボテンではなく春牡丹の花だろうか。緋牡丹といえば「お竜」がすぐに浮かぶ筆者であるが、ここは直球の花の歌。素直に読もう。「緋」と「陽」、「ひと日」の頭韻がリズムを生む。二首目、枝から離されて息をついたような、薔薇の動作として詠んだところが面白い。

ガラパゴス諸島に生息するやうな携帯電話と云はれ驚く     菊池 裕

次世代のソーシャルネットワーキング何処かで消滅する街へ行く   同

いわゆる「ガラケー」。スマホ(スマートフォン)が主流となった今、携帯電話はガラケーと呼ばれる。若者にとっては、こういう説明をすること自体古い感じなのかもしれない。ふん、古くて悪いか、と思う。二首目、ここ十数年で「次世代の~」というモノがたくさん出てきた。次世代というなら私らオヨビじゃないわね、という感覚。話は逸れるが、『進撃の巨人』という漫画を読んだ。なんなんだ、この巨人はっっ!と思わず喝を入れたくなるような風体(赤ちゃん体型に、「いい人」の顔。しかもすっぽんぽんである)。一見、ギャグなのかと思うほどだ。爆発的な売れ行きらしいが、これのどこが面白いのかさっぱり分からない。・・・とまあ、若者文化にいちゃもんをつけるようになるほど、年をとったということか。これはもう、「何処かで消滅する街へ行く」しかあるまい。

総合誌は角川「短歌」8月号、特集「八月十五日  戦争の歌を語り継ぐ」より。

片羽なきびいどろの鶴びいどろの棚に立ちをり 八月十五日  永田典子

作者の一首と短文が載っている。戦時中、バルザックの『谷間の百合』を読んでいただけで、気を失うほど殴られたという山崎豊子の談話を引き、戦争によって奪われた十年=青春時代を返してほしいと書かれている。片羽をもがれたまま幾十年、棚におかれた鶴と作者が重なる。こうして、戦時下の様子を語れる人がいるうちは特集も可能だが、そのうち当事者として語れる人がいなくなったら、どうなるのだろう。

歌評(月2回更新)

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