2015年10月1日(中畑 智江)
いろいろな出来事があった九月でした。個人的には「強い」ということは、どういうことかと考えた九月となりました。人間にしても、病気にならないこと、もしくは打ち勝つことだけが「強い」のではなく、例えば、苦しいさなかに下記のような歌を詠む人も「強い」のではないか、など。
中部短歌誌「短歌」八月号より。
副作用強すぎて十八時間眠る 美女なら百年つづく/堀田季何
「眠り姫」の美女は、呪いにより百年ものあいだ眠り続けた。強すぎる副作用はもはや呪いのようなものだが、自分はたかだか十八時間。なんてことはない、という感じに私は受け取った。
次に中部短歌誌「短歌」九月号より。
薄荷ばかり残つた缶のドロップを転がせば胸に音は翳れる/吉田光子
薄荷や缶、ドロップという言葉がなにか懐かしく、青春の終わりのような、爽やかな切なさが私の胸にも来た。結句がとてもきれい。
染め上げし三浦絞りの藍に立つ湯気ほのぼのと夏は立ちゆく/山田峯夫
「三浦絞り」とは絞り染めの技法のひとつで、江戸時代に豊後国から鳴海(名古屋市緑区)に伝えられたそうだ。鳴海は有松絞りで有名な地域である。粋な夏が始まりそう。
まひるまの袋小路にひとすぢの光が射して誰も気づかぬ/菊池裕
昼間でも何となく暗い感じの袋小路。そこに光が射すのだが、哀しいことに誰も気づかない。人生の袋小路にいる人が、せっかくの光(希望)に気づけず、相変わらず悲観しているようにも思える。
今号は新鋭気鋭特集が組まれ、14名の力作が載る。二首引く。
夕暮れの鳥居の外に鞦韆は低く軋めり空気をのせて/雲嶋玲
夕暮れ、低く、軋む・・これらの言葉を受けて感じる空気。ひんやりと重苦しい、嫌な感じの空気だ。雲嶋作品は、連作十首で一つの物語を構成している。舞台は日暮れの神社。一緒にかくれんぼした子とは…? ちょっと怖くて謎めいた連作だった。
花束を抱えて帰る花束にふさわしき顔よそおいながら/吉村実紀恵
花束という非日常を抱きながら通い慣れた道をゆくときの気持ち。だぶん、照れくささと誇らしい気持ちが入り混じった感じになる。だから平静を装いつつ、いつもより若干胸を張って歩く。そんな感じが歌にぴったりと詠まれている。
次にコスモス所属の白川ユウコさんの第二歌集『乙女ノ本懐』より。大学入学と同時に歌を始めた作者の、二十代前半から三十代の歌が収録されている。「心をからっぽにしたい、心をいっぱいにしたい。両極端な欲望が歌を詠むときのエネルギーになっています。」というあとがきも力強い。
氷片と氷片くっつきあうグラスつめたかったねきみもわたしも
眼鏡かけ眼鏡のきみの眼を見ればわれらのあいだ硝子四枚
プラチナを薄く展ばして青空を舞わせたようなぼくだけの蝶
(展ばす=のばす)
夏の果てホームセンターレジ台に柳刃包丁差し出す女
カトレアはうすらつめたくはなやいで松坂屋にて喪服を選ぶ
世界の冷たさに過敏に反応しつつも、その観察をやめない作者。これから四十代に入り、今後どういった歌が詠まれていくのか楽しみだ。