2012年12月1日(中畑智江)

光跡中部短歌会の創立九十周年を記念して、合同歌集『光跡』が上梓された。どの作品も作者の思い入れが滲む。当然のことながら合同歌集は、毎月の結社誌とはまた違う味わいを見せる。改めて、節目ごとに合同歌集を出すことの意義を感じた。さらに年月を重ねれば、その思いはより深いものへとなるのだろう。

その『光跡』より引く。

つくられた私の方が楽しげで誤解そのまま放置しておく /大澤澄子「物語」

「放置」という冷めた言葉が印象的だ。自己イメージは、もはや自分からは独立した存在なのだと、客観的に見ている。

紅ひかず一日過ごせばくちびるは嘘つくことを忘れてゆるぶ  /太田典子「想いの花」

この作者にとって、「口紅」とは社会生活を送るための道具である。口紅が不要なオフの日は、同時に、リップサービスという嘘をつかずに済む日でもある。唇のゆるびは心の安らぎだ。

夕光をひきよせて立つ葦の群岸辺さまようものきらめかせ /河村良子「水辺」

春日井建の歌集『青葦』が思い出される一連だった。タイトル「水辺」も建先生のキーワードである。夕光を引き寄せつつ、周囲までも煌めかせながら立つ「葦」。このカリスマ性が建先生なのだ。

群るるなき百舌は冬木の天辺で自己完結の高鳴きしをり /洲淵智子「鳥のうた」

自己などを持たない百舌に、自己完結という言葉をあてたところが面白い。孤独な環境でも、めげずに高鳴きのできる百舌は、自己完結の中で幸せそう。

二人いて橋のようなるテーブルに夕映え色の紅茶置かれる/竹内美香「肌色の雲」

静かに美しい夕ぐれの光景であり、それが二人の関係を象徴しているかのようだ。人生の夕ぐれとしては理想的である。

名店に和菓子のひとつひとつ見て春野に遊ぶ小鳥のごとし /故・坪内と志子「昼の静けさ」

小鳥のようだと思われたのは、春の和菓子だろうか、和菓子を喜ぶ作者自身だろうか。どちらにしても、作者のお人柄であろう。童心があり愛らしい歌である。

引き込まれ闇すり抜けてぐいと出る切符のような希望まだある /坪井圭子「ぐいと出る」

「切符」は、手のひらに収まるほど小さいが、遠くまで自分を連れて行ってくれる大事なものだ。さらに自動改札機という闇の中に入っても、すぐに飛び出して戻ってくる。ここに着目し、「希望」という言葉につなげて来たところが頼もしい。歌にスピード感もある。

ヘブライとユダとユダヤとイスラエルおぼろげながら椪柑を剥く /堀田季何「家常茶飯」

ゆるく関係する言葉たちを並べ、どれが何だっけと言う感じで柑橘を剥く。上句の韻律も良く、下句のポンカンという、とぼけた音も効果的だ。この「家常茶飯」には、日常的な物と、日常から少し距離のある事象などを、程良いバランスで組み合わせた秀歌が並ぶ。

プロとアマその境界がうやむやになりて成り立つ世に技は死ぬ /山下浩一「示唆」(*ルビ:技=わざ)

連作中にトンカチが出て来るので、引用歌のプロ/アマは、その業界のことかもしれないが、現代短歌を示唆しているのかとも思った。

ふはふはのさびしさくるんでゐるやうなろおるけえきをゆふぐれに買ふ /吉田光子「ろおるけえき」

ひらがなが続き、最後の最後で「買ふ」という漢字がぽんと出て来る。なんとなく夢のようなぼんやりとした淋しさが続き、最後の「買ふ」で現実に戻される。

合同歌集を読んで感じたことは、タイトルの重要性だった。タイトルも作品の一部なので、歌と同じくらい心を配るべきだと思う。「地球鉛筆」「家常茶飯」「ろおるけえき」などに惹かれた。

さいごに、合同歌集の刊行という大仕事に関わって下さった方々に、この場をお借りしてお礼を申し上げたく思います。ありがとうございました。

では、通常の結社誌の11号より。

ひざまづき帯を結んでくれる人されるがままに見おろしてゐる /紀水章生

作者は、されるがままという、ある意味、低い立場に居ながら、物理的には相手を見下ろしていて、その立ち位置に逆説的な面白さがある。「人」の後に「を」を補うと分かりやすい。

ローラーのついたベッドに横たわり整骨院の動物となる /青木久子

緊張感のある日常生活の反動で、整骨院では動物になってしまう作者。動物園の昼寝中のクマなどが思い浮かんだが、ここは固有名詞にせず、読者の想像に任せた方が良いのかとも思った。

スイッチを押して生まるるそよ風のやさしき嘘に眠りてゆかむ /近藤寿美子

扇風機の風は人工的な風であり、いわば偽物である。このやわらかく涼しげな歌の中での「嘘」という字はドキッとして効果的である。

(*前回の歌評担当者もこの歌を挙げており、掲載が重複してしまいますが、「佳い歌は佳い」ということでこのまま残しておきます。)

この夏は競犬のごと駆け行きぬわが泣き面に砂埃かけ /林瑞人

夏を犬に例えた歌を初めて見た。しかも失敬な犬だ。作者にとっては、何か大変な夏であったのだろうが、ユーモラスに詠っている。

回収車の積みてゆきたる新聞の八月の日々はやくも遠し /三浦しき

遠のいていく回収車に、そして回収された新聞に、自分の過ごした夏を重ねてしまう。すると、それなりに懸命に過ごしたであろう日々まで不用物に感じられ、夏の終わりの切なさが増す。

以上、夏という厳しい季節のせいか、お疲れ気味の歌が多かった。というわけで、総合誌からは思わず笑ってしまった歌を紹介したい。笑いのツボは人それぞれであるが、私は次の二首に笑ってしまった。

その歳で自分磨きと言ふ友の先細りゆく人生を思ふ /桑原憂太郎/『短歌研究』11月号

ハーフ役の范文雀のあきらかに毎回ちがう顔の黒さよ /穂村弘/角川『短歌』11月号

*范文雀・・・日本の女優。2002年に亡くなっている。

歌評(月2回更新)

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