2013年7月15日(吉田光子)
近所のお嬢さんがお嫁入りをされる際、白無垢姿で家を出られ袋菓子が振舞われた。最近はあまり見られない光景だったが、晴れやかで温かいものがあたりに漂い、幸せを分けてもらったような気持になった。
私が小さかったころ、お嫁入りにはN社(現在はPと社名を変えたが)の家電が必須だった。少なくとも関西では…。近所のおねえさんも私の姉も、紅白の幕をかけたトラックにN社の製品を積んでお嫁にいった。当時、N社の品は他のメーカーに比べ価格が少し高いと大人たちが話していたけれど、しっかりした品質のものを持たせたいとの親心がN社を選んだのだろう。それほどNブランドへの信頼は絶大だった。そんな光景を見ながら、幼い私と友達は、「わたしたちもNの洗濯機持ってお嫁にゆくのかな。」などと、うっとり、話をしたものだ。結婚は果てなく遠く得体の知れないものであったが、Nマークの洗濯機や冷蔵庫は白く輝く確かな〈ザ・結婚〉のように思えたのだった。
あの頃も夏は暑かったはず。でも、今年の猛暑は触れるものをぐわんと押し潰しそうな迫力がある。皆さま、どうぞご自愛ください。
では、結社誌「短歌」6月号より
三十年住み古り隣る寺の森は未だ明けやらぬ溶暗のなか 斎藤すみ子
「うぐいす」と題された一連の最後の一首。作者とともに払暁の森を見下ろしているような感覚に捉われる歌だ。この歌の前に置かれた「鶯の去りたるあとの揺れはあらぬ細枝の交差しみじみと見ぬ」の圧倒的な観察力。そして、そこから生まれる豊かさをまとって、見つめる寺の森は厳かである。「溶暗」の一語が視界の深度をひときわ大きくしているように思う。
内気なる弧をゑがきつつ若草の羊が丘に虹たちにけり 大沢 優子
伸びやかな景に愛らしさのエッセンスをさり気なく落とした感がある。虹はうつむいたように弧を描いて架かる、作者はそれを「内気」と受け止めた。「内気な虹」という表現に無理を感じるか叙情性を覚えるかは、意見の分かれるところかも知れない。だが、その傾向に多寡があるにせよ人は誰もが内側へ傾く部分を持っていよう。この歌に楽しい共感を持つ人も多いはずだ。
流し目に我をかすめる水仙の人を待つごと香り立ちくる 蟹江 香代
視野のかたすみに捕らえた水仙、気がつけばその香りがめぐりを漂っている。簡潔にまとめられた上句が巧みだ。水仙の中心にある筒状の部分は副花冠と呼ばれるが、瞳を暗示するかのような佇まいであり、「流し目」と響き合ってなめらかな1首となった。
「歌壇」7月号より
目路とほく草食む牛の群いくつ音たてず死をひとは育む 宮原 勉
阿蘇を訪れての一連。緩やかな起伏をみせる広々とした牧場に草を食む牛の群、のどかな風景である。しかし、その光景は実は死を前提とした短い命を育んでいるのに他ならないと、作者は静かに提示している。無垢な生命を、人は奪うために光の中で遊ばせていると、作者は説いているのだ。魔女が人間の子を太らせてから食べようとたくらんだ童話を、ふと思い出す。私たちは、みな、悪い魔女なのだろうか。こころの奥にずんと錘を落とし込むような力を持つ歌である。
わたくしの裡に大きな溶鉱炉ありてあなたをむんずと放る 佐藤羽美
たぎる溶鉱炉を抱える作者には、放り入れたい「あなた」があるらしい。「むんずと」という激しい言葉が用いられているけれど、どこかからりと乾いた質感が漂う。作者とあなたとの間にはどろどろとせめぎ合うことはない距離が横たわっているかのような感覚。傷つけ傷つけられることを恐れる思いが、知らず知らずのうちに身に備わってしまっているということなのだろうか。