2013年10月15日(吉田光子)
玄関の掃除をしていたら、かすかに金木犀の香が漂ってきた。どこからだろうと思ったら、我が家からだった。春にほんの小さな苗木を植えたけれど、まだ花は無理かなと思っていた。それなのに、健気に花をつけてくれたのだ。細い枝をぐるっと囲み、橙色の小さな花が吹きだすように咲いている。秋のかおりに包まれて、私はとても幸せな気持になった。通り過ぎる野良猫の足取りも、心なしか優雅である。しばらくの間は、外掃除の時間が楽しいひとときになりそうだ。
では、結社誌「短歌」9月号から
トタン屋根ブリキの馬穴うちならし昭和の雨はほがらかに降りき 長谷川径子
なにごともなく暮れる日のピリオドになみてんとうむしを見つけたり 同
平成となって四半世紀が過ぎようとしている。昭和は郷愁をまとって少しずつ遠くに灯るようになった。一首目からは戦後の復興期のころの日本のイメージが立ち上がる。そして、雨音を「ほがらか」ととらえた表現が、生き生きとしたエネルギーを伝えてくれる。「うちならして」降る元気な雨は、やがて高度成長期へと向かう日本へつながっているかのようだ。 そして、2首目は穏やかに現在の暮らしを見つめほのぼのと楽しい。なみてんとうのコロンと丸い姿は、ピリオドにそのまま重なって、おしゃれで素敵な歌となった。
遊牧の民の伝へし韻律に草原を鳴る風聞きてをり 大塚 孝子
若鮎のからだ撓ませ踊る娘を見つめて熱き男愛すべし 同
ショー撥ねしカッパドギアの夜の更けを秋の星辰またたきてをり 同
トルコへの旅行詠がきらりと並ぶ。どの歌も確かな眼差しと表現力に支えられ、オーラを放ってやまない。大草原を渡る風を思わせる楽の音、そして、カッパドキアの夜空の瞬き、このような心震わせる情景が美しく読む者に伝わってくる。2首目は、洞窟レストランでのナイトショーだろうか。魅惑的な踊り子を見る男たちに向けられた作者の視線は、座の賑わいを見つめておおらかである(それはもはや人類愛と言ってもいいかも知れない)。大人の女性ならではのゆとりある切り取り方と言えよう。
老い母と老いたる叔母が繋ぐ手は病もちたる細き老いの手 金野美也子
イグナチオの主聖堂に佇みて〈生〉ある今を慈しみをり 同
「老い」という語が3回も出てくる1首目は、高齢化の進む社会の現実を静かに提示しているかのようだ。母を叔母を、そしてその手を見つめる作者の心には拭い切れない哀しみと懸念が広がっていよう。しかし、〈生〉ある今を慈しもうとする2首目に、大きな安らぎがある。信仰がもたらす平安に寄り添い、前を見つめる作者である。
次に、角川書店の「短歌」10月号から。
濃淡のつばさ畳みてしづもれる緑葉の窓は一(いち)夏(げ)面壁(めんぺき) 雨宮 雅子
窓外に緑が茂る様を「濃淡のつばさ畳みて」ととらえて鮮やかである。「一夏」とは陰暦4月16日から7月15日までの90日間をいうそうだ。「面壁」は壁に向かって座禅を行うこと。爽やかに緑葉が覆う窓に向かえば、自ずから澄んだ気持になれそうである。
停年の後の虚しさあるときは測深鉛を心に垂らす 中村 達
測深鉛とは、海の深さを測る道具。深さの目印となる革や布が付いたロープに結ばれて用いられる。測深鉛の底の窪みにグリースを詰めて海底の状態を知ることもできるそうだ。心に静かに垂らす測深鉛。測り取ることはできないほどの深さかも知れぬ虚しさの薄闇を、作者はじっと見つめている。停年のもたらす喪失感の大きさは、「生まれたるばかりの蜥蜴足元に動くわれよりいのち輝き」や「街をゆく人も車も映像をわが見るごとし停年ののち」からもうかがい知ることができる。
瓶の水さやかにあふれ逢うまでの時間の嵩に金魚泳がす 米倉 歩
行き着けば向きを変えるということの 分別のうちを泳ぐ金魚は 同
人を一心に想う作者である。一連には、もっと激しい思いをぶつけた歌もある。金魚が持つ
分別さえ持てぬ危うさが心のうちに潜んでいるのだ。ひりひりとした切なさが伝わってきた。