2014年6月15日(長谷川と茂古)

中部短歌会では第二日曜に開催される本部歌会にあわせて結社誌が届く。今月はいつもより早いなあと思ったら、第二日曜が8日であった。さて、6月も後半、一年の折り返し地点が近い。結社誌6月号より。

春を告げ「元気でいたよ 元気でしょ」神戸から来る彼女のくぎ煮   林本 泉

それまでは馴染みのなかった関西(にし)の味一人暮らしに優しく甘く  同

離れても春ごと届く宅急便伝票の字が全てを語り              同

この春は作者が持参で食卓へいつもどおりの彼女のくぎ煮        同

「最後です 来年はもう作りません」耳に残ってくぎ煮は苦く        同

ストーリーを追いたくなって思わず、五首書きだしてしまった。作品Ⅲなので、連作に題名はついていない。登場人物は作中主体と「彼女」。一人暮らしの作中主体には、神戸に離れて暮らす「彼女」が居る。三首目の「離れても春ごと届く」とあるから、離れていなかった時があったわけだ。そしてその「彼女」は、春ごとにいかなごのくぎ煮を作り、宅急便で作中主体に送る。けれどもこの春は、「彼女」自ら作中主体の元へ届けてくれたのである。おおこれは素敵な展開、と思って読んでいたら急転、これが最後のくぎ煮であること、来年は作らないと言われて終わる。ドラマティックなのだが、謎が残る。三首目の下句、「宅急便の字が全てを語り」とあるが、この「全て」がよく分からない。おそらくこの時点では、二人は良い関係だったと作中主体は思っていたように思われる。また、「彼女」とあるが、友人かもしれないし、何より、春ごとに作っていたくぎ煮をどうして来年は作らないことにしたのか理由は語られていない。いずれにせよ、優しく甘いいかなごのくぎ煮が、苦く感じられるほどの変わりようである。続きが読みたくなる。次号を待ちたい。

手づくりの亡母の栞はひそやかに鷗外の書に眠りてをりぬ    竹下大和子

どんな栞だろう。また、森鷗外のどの本だろうと想像を逞しくさせる。ただ、作者は、母の手によるものが本にはさんであって、そこに母を感じていることを詠っている。亡き母が近くにいるような感覚。「ひそやかに」「眠りて」が調和している。
総合誌は「歌壇」6月号より。特別企画「学生短歌会の歌人たち」が目にとまる。

片隅の震える機械に水をやる人が居たからそれが加湿器     吉田恭大

見逃した映画を君が借りてきて君は二回目だけど観ている       同

引越した先の最初のコンビニで私は何を購うだろう            同

「4号線、12号線」より引いた。連作中、題名は出てこない。だもんで一瞬「何だ?」と思う。うーん、それが作者の狙いであれば、やられたな、と思う。4号線とくれば、東北へと走る国道が浮かぶが、たぶん違うだろう。さて、一首目。室内の隅にある四角いもの。あるいは涙型のお洒落なやつかもしれない。機械らしいけれど何かな、と思っていると、人がきて水を入れた。ああ、加湿器か~、という歌。二首目、作中主体が「見逃した映画を君が借りてきて」くれた。これがもし、イヤイヤ二回目を観ているとしたら、「そんなに嫌なら一緒に観なくていいよ」と喧嘩になったはず。おそらく二人はお互いを気遣ってどこか遠慮しているような、そんな関係の空気が感じられる。三首目。コンビニの歌はとても多い。誰にとっても生活の一部であるかのような現代。そんななか、これから引越す先のコンビニを思った歌というのは珍しい。そこで何を買うのだろうとなんだか楽しんでいるような、期待するような気持ち。

ベランダを三人だけの場所としてリコーダー部が陽を沈めゆく    宮﨑哲生

「一組の岩田がさっき先生を『トトロいる?』って探しにきたよ」      同

水飲み場に立てかけられて竹箒いつまでだれの手を待っている    同

リコーダー。学生時代の象徴、とまではいかないが、身近で趣のある楽器である。リコーダー部、というのがあるのかどうかは分からないが、三人が学校のベランダで夕陽を眺めている、その時間が切なく感じられる歌。二首目。「トトロ」と呼ばれる先生がいるとは羨ましい。もしかすると、「一組の岩田」さんにとって「トトロ」なのかもしれない。「岩田」さんと「先生」の存在が、「トトロ」でいっぱいになってしまう。誰かによって立てかけられた「竹箒」に感情移入した作者。仲間のところに帰れず、一人、水飲み場で佇んでいるようだ。連作の題名はずばり「放課後」。中学時代の記憶なのかも、と思って読んだ。

歌評(月2回更新)

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