2015年8月1日(大沢 優子)
連日猛暑が続いている。先日五か月ぶりに結社の歌会が東京で開かれた。名古屋の本部歌会にはなかなか参加できないという人も、東京ならば、ということで盛会だった。それぞれに披瀝される歌をみると、さまざまな個性、人生観があらわれている。なおかつ結社の色合いを残しているという事を時に不思議に思う。
結社誌7月号より、今月は古典的な素材や、詠風の歌に心ひかれた。
わが命果てたる後も姫想うこころつたえん富士の煙は 太田典子
若き日の記憶無けれどひと恋うる夜に仰げり青き地球を 同
『竹取物語』をテーマに、届かぬ愛を自由に詠んだ一連。永遠の愛を願い、富士の煙に託す帝の心。ここの富士は、やはり不二としたい。月の住人に戻った姫は、人間界の記憶を失っている、それでも時折人恋しさに駆られて、はるかに地球を眺めることもあるであろう。時空を超えてロマンを詠うとき、古典は尽きせぬ泉となる。
癌秘して業(な)り続けたる妹かもゆくりなくして敢無くなりぬ 水上令夫
人の死を表現するのに、さまざまな言い回しがあることに改めて気づかされる。「敢無くなりぬ」という万葉調の表現は、最近の歌に見かけなくなったが、優しい措辞が妹の死を悼むのにふさわしく、哀切にひびく。
七日桜早も散りゆくひととせののちに逢はむとふと言ひ淀む 山内昭子
古調の一首である。これを現代風に訳して「来年もまたお花見をしましょうね、と約束しようとして不図ためらった」とすると、歌にある陰影が全く失われる。またの日を期することは誰にもできないと、ふと気づいた一瞬のためらいの深さが「ひととせののちに逢はむとふと言ひ淀む」にはある。
「ゆく河の」口ずさみつつ着替えする無常はいまだ知らざる五歳 近藤恭年
NHKの子供向けの番組「にほんごであそぼ」では、古典や名文の件りをいつの間にか暗唱できるよう、繰り返し流している。『方丈記』の冒頭の一節もそのひとつで、五歳の子は無常観などにかかわりなく、韻律の快さに身を任せ朗誦しているのだろう。意味と出会うのはもっと後になってからになろう。一昔前の人々が、百人一首の和歌をまず耳から身に添わせていったように。
「短歌往来」8月号掲載、香川ヒサ「一樹の下に」から
ビルの壁掠め鳩飛ぶ鴉飛ぶ必ず違法飛行せぬもの
この一枚あらば便利といふカード増えて鞄の持ち重りする
便利なものまづ使はれむ最善の方法つねに選ぶ悪事に
どの歌も現代社会をシニカルに、かつ淡々と詠っている。歌の意味に確かな核があるが、韻律をK音で整えた一首目、また二首目のように「持ち重りする」に現代生活の多くの場面を想像させる拡がりがあり、そこはかとないユーモアも漂わせている。一読すると素っ気ないような印象の一連は、詠みゆくほどに襞が深まる。
停まりたる電車の中にぎつしりと動くまで待つ時間のありぬ
自分がいま置かれている空間と自らの内面とが確かな境界を失うような不思議な時間を詠うのは、作者独自の世界であり、ひとの意志を超えた存在を感じさせる歌である。
IDカードにシャツポケットを膨らませ若子ら歩む夏さりにけり
「若子」は「わくご」と東歌風に読んでよいのだろう。「さりにけり」は無論「近づいてきた」の意味である。香川さんは口語歌を中心に詠まれているが、旧仮名を用い、古典の素養も深い。最近の芯の曖昧な口語の歌と一線を画したところに魅力がある。