2016年6月15日(三枝 貞代)
まず初めに、結社誌「短歌」6月号より。
iPadのロゴの林檎の欠落を見るなく人ら恋唄を聴く 大塚 寅彦
今の情報社会を作者独自の視点、鋭い感性で切り取られていて、心に留まった。iPadはAppleによって開発及び販売されているタブレット型コンピュータ―。Appleという企業のロゴを、ほとんどの方は一度は目にした事があるだろう、Appleのロゴマークは今のロゴになるまでに数回変更している。現在はリンゴの右上がかじられたロゴである。かつて日本のメディアでも紹介されたのは次のような事だった。ロゴの「リンゴのかじられている」意味は、聖書の『アダムとイブ』の禁じられた果実リンゴのことで、禁断を破った人類の進歩を表している。そしてもうひとつの意味「bite=かじる」とコンピューターの情報量の単位「byte=バイト」をかけているのだと・・・。しかし、ロゴをデザインしたロブ・ジャノフは、それらを否定した。真実はただ単に、さくらんぼに間違われないように、リンゴに、かじった部分を入れたと打ち明けている。
作者はこのロゴ由来の真相を充分承知していながら、なおその欠けたリンゴのロゴに「禁断の果実」を重ねているように思われる。 iPadを開いて使っている人は画面を見ているから、裏面に入った欠けたリンゴのロゴは見えない。開いている間、ロゴが見えるのは自分以外の他人である。そこに作者は注目し、一方にのみ囚われている人らが、見落としている物がもう一方に存在することを、言いたかったのではないだろうか。「恋唄を聴く」という結句を、恋唄=多大な情報と捉え、その情報を得ようとしている現代社会の人たちと解釈しては間違いであろうか。不思議な魅力を感じてしまう一首である。
車座になりて衣類を見つめゐる女(め)らの眼の妖しくひかる 勝又 祐三
形見分け済みたる筈になほ残る母の手帳をわれの引き取る 同
連作「形見」の一連より引く。一首目、四十九日法要が済んだ後であろうか。形見分けの場での光景をリアルに詠んでいて、人間の心の奥にひそむ微妙な心理が結句によく現われていてはっとする。「車座になり」とあるから、二人や三人ではないだろう。作者の妻、亡くなった母上の娘たち、また母上の姉妹たちであろうか。私はどれでもひとついただければいいわと言いつつ、無意識のうちに少しでも価値あるもの、好みの品を見つけようとする、女性たちのその静かな火花を作者は見逃さない。かいま見えた、人間の性を見逃さずとらえていて、その場の雰囲気がありありと伝わってくる。衣類のなかにはもちろん着物も含まれているのだろう。
二首目、「もう済みましたよ」という声に戻ってみると、母の手帳がぽつんと残っているではないか。「なほ残る」という三句目の表現がよく効いている。また、「われの引き取る」という結句から、男らしい作者が立ちあがってくる。有りようだけで理屈のない詠みから、読み手の胸にその時の作者の気持ちまで沁みてくる。日常詠でありながら、哀感を感じる一首である。
あらかじめ答えは種子のなかにあり未開封なるその花言葉 雪村 遙
まず作者の発想の豊かさに魅かれた。上の句を読んだとき、何の答えだろうと引き込まれる。上手いなぁと思う。花言葉の由来は、それぞれの民族の歴史、風習、神話や伝説から生まれたとされていて、各民族による思い入れは深く、心を象徴する「象徴言語」的な役割を果たしてきた。ひとつの花についての解釈や思い入れがそれぞれの国によって異なっているため、ひとつの花について花言葉はひとつとは限らないのである。日本に花言葉が輸入されたのは19世紀末の明治初期だと言われている。花言葉は、花として咲いている状態のときの、色や香り、棘の有無、花から受ける印象や性質を言葉に置き換えてあるものだ。
作者が今蒔こうとしているかどうか定かではないが、種子のなかにはすでに花言葉が内包されていることに気付いたのである。芽を出していない種子は、未開封な玉手箱だ。
花として咲いた時、花言葉も種子からやっとはばたけるのである。目に見えないものの存在に気づいた作者。その感性の鋭さ、また柔らかさに脱帽する。
年老いて夢と現実(うつつ)が混ざり合う汽水域やも浅く呼吸す 山口 竜也
老いてゆく自身を冷静に見つめ、その深い心情をさらりと詠んでいる。まだまだ若いと思っていた自分も、気付けば思いのほか歳を重ねてしまった。哀しいかな、この頃は現実の暮しにいても、夢のなかをさ迷っているようにも思えたりする。「汽水域」とは、河川・湖沼および沿海などの水域のうち、汽水が占める区域である。汽水は、淡水と海水が混在した状態の液体を指す用語。川が海に淡水を注ぎ入れている河口部がこれにあたる。老いた今の自分は、はっきりとしないそんな「汽水域」にいるようなものかなぁとため息をこぼしているように思える。四句目の「汽水域やも」が、この歌の発見でありポイントではないだろうか。初句と結句が呼応し合っている。老いの悲哀が見事に詠まれていると感じた。
次に2015年11月に刊行された岡田登美子氏の第一歌集『雛街道』を紹介したい。岩村支部長として長く中部短歌で活躍されている作者である。結社誌6月号では、この『雛街道』の書評が特集されている。
花かたばみ花閉ぢ夜を眠りたりわれも眠らん明日は明日とし
戦中に船を造ると伐られたる杉の巨根(おおね)も朽ちし城跡
天保の雛の顔(かんばせ)白々と夕やみせまるウィンドーの中
一首目、夕べになれば自然の摂理のまま、かたばみは静かに花を閉じている。私も、思い悩むことは止め、明日は明日と割り切って眠ろう。そんな作者の思いが汲み取れる。
二首目、この城跡は岩村城址のことだろう。岩村城は松山城(備中)、高取城(奈良)とともに日本三大山城のひとつである。杉の巨根(おおね)も朽ちてしまった侘びしい城跡に来て、抗えない時の流れを作者はしみじみと噛み締めている。写実で詠まれているなかに、時の経過が感じられる。
三首目、集名『雛街道』は、「いわむら城下町のひなまつり」の行事より付けられた。
天保雛は約180年前のもの。この一首を含む一連は感情を抑えて詠まれているが、作者が雛に寄せる慈しみを充分汲みとることができる。対象を慎ましく捉えた実直な歌風から、詠みつづける中で培われてきた確かな力が伝わってくる。詩情豊かな『雛街道』は私を心から和ませてくれた。
総合誌は角川「短歌」6月号より。第50回迢空賞が発表されている。受賞者は大島史洋氏、受賞作品は第十二歌集『ふくろう』(短歌研究社)である。大島史洋氏の受賞のことばの中から、とても心に残った言葉をここに記したい。
『今のありのままの、中途半端な存在をうたい続けていくしかない。比喩にはたよりたくない。小さな発見に体温のこもった実感を添えて、こつこつとうたい続けていく。それが大事なのだと、今は思っている。』 〈受賞の言葉より〉
寄り添って支えるために立っているもやしのような僕ではあるが
ふるさとに雪は降るとぞ死にそうで死ねない父を見舞いにゆかむ
認知症の母が死にたいと言いしときそううまくはゆかぬと言いたる父よ
大島史洋氏は中津川市生まれ、毎年四月の第四土曜日には、中津川市において、草笛短歌祭(主催 草笛短歌会 代表 桑田靖之)が開催されているが、その選者でもある。年一回の大会においての選歌、講評をあらためてありがたく思う。受賞作品を再読してみると、そこには詩情や美を剥ぎ取った、日常に潜むさりげない出来事を、見落としてしまうような場面をリアルに、また深く詠み込まれている。当たり前のなかに、当たり前でない微妙な味わいがいつの間にか胸にじんわりと広がる。
選者の一人岡野弘彦の選評を引用させていただく。
『この歌集の意義は、現代の死の相(すがた)を親の死の上に見出して、確かに歌ったその深さにあると私は思う』
受賞者大島史洋氏のますますのご活躍を祈念している。