2013年4月1日(長谷川と茂古)
この春、花粉症の症状がいつもよりひどい。風の強い日も数回あって、土埃か、黄砂かPM2.5かわからぬが、景色も薄く淀んでいた。こうなると、どこか空気のきれいなところへ行きたくなる。
塚本邦雄の、「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」が収められたのは1958年刊行の『日本人霊歌』。それから54年後の昨年、永井祐の歌集『日本の中でたのしく暮らす』が刊行された。この題名は、塚本の「日本脱出したし」への返歌のようで、面白い。作者それぞれの時代背景は、1920年生れの塚本と1981年生れの永井とでは、もちろん大きく異なるのだが、立ち位置というか、表現するその姿勢は似ているように思う。塚本の「皇帝ペンギン」は日本の象徴であって、いわば日本の中心。それが「脱出したし」というのは、逆説的であろう。また、永井の歌集名は、失われた20年の真っただ中である世代にしてみれば、こんな世の中でどうして楽しく暮らせるんじゃい、と反論されそうだが、いや、だからこそ、だ。塚本と永井の作品を細かくみていけば、なにか発見があるかもしれない。
と、いったところで結社誌3月号から。
天道虫となりて人の肘を越えるあやしき夢をみてをりしかな 稲葉京子
リハビリ室のかたへにバッタが居りしこと何のはづみにかふと思ふなり 同
「天道虫」と題された一連を読むと、夢と現実の記憶の間でゆれるような感覚をおぼえる。ああこれは、夢だ、あやしいぞと思いながらも、人の肘を越えてゆく作者。二首目、後になってはっと思い出す風景にバッタがいた。ただそのことがリアルにせまってくる。
なんとかとなんとかの住むなんとかに子は国王として絵本をめくる 中畑智江
ぞくぞくと立ちあがりゆく雲たちに引かれて背伸びしてしまう子よ 同
絵本を声に出して読んでいるのだろうか。子にしてみればすらすらと話をしているのだが、親は何を言っているのかよく理解できない。用事をしていて、半分聞いていないのかもしれぬ。が、子の成長に目を細めているような親の存在を感じる歌だ。二首目、わが子とはいえ、親がすべて把握できているかというと、そうではない。無意識に「授かりもの」という捉え方が底流にあるように思う。子が自然と一体化したような「雲に引かれて」が良い。今月号から、中畑氏の「歌誌遊覧」が始まった。初回は「『まひる野』を読む」。連載中の菊池裕氏の「私的ブックレビュー☆歌書毒見」とともに読む楽しみが増えた。
また、今月の特集は結社の「短歌賞受賞者競詠」。筆者以外の方たちの歌を一首ずつ紹介しておきたい。
屈原が河のほとりにあひにける漁夫の歌声聞きたるやうな 大沢優子
帰還兵フロート降りて妻子抱く、どよめく拍手に星条旗舞ふ 青山 汀
パソコンの用心深いごみ箱はかなしい歌でいつぱいですか 吉田光子
うぐいすのうぐいす色にあらずしてうぐいす色の目白いとしむ 中村孝子
校庭に遊びしあまたの足あとは予報にあらぬ粉雪かぶる 川田 茂
年賀状に大きく明るく弾みをり「結婚しました」七十七の友 村井佐枝子
中国の詩人・屈原を悼む漁夫に焦点をあてた歌。古典の知識は、歌に奥行きを持たせる。大沢氏ならでは、だ。青山氏はロス在住。「星条旗」をバックに「帰還兵」が妻子を抱くシーンは、映画の1シーンのようである。いかにもアメリカ。吉田氏は、PCの「ごみ箱」に調わなかった歌を入れるようだ。ひと昔前の、書きかけの紙をくしゃくしゃにしてポイッという感じだろうか。中村氏の歌、筆者も大いに頷く。これ以上ないくらいうぐいす色の体なのに(うぐいす餅にそっくりだ)、なぜアイラインの白が名前になるのか、「そっちか!」とツッコミたくもなる。校庭で元気に遊ぶ子どもたちではなく、いなくなったあとの足跡に注目した川田氏。「粉雪」のはかなさと巧く呼応している。村井氏の歌、超高齢化社会の日本では、今珍しいことではなくなるかもしれない。
続いて、「短歌研究」4月号から。
父の死を予定して前に倒したるひとつ仕事を埋めてをりぬ 大辻隆弘
平らかになりにし父の胸に射すきのふ雨水(うすい)を過ぎたる陽ざし 同
舌さきは罅割るるまでしろじろと乾きて息に震へてゐたり 同
「挿木」と題された一連から。死ののちの現実問題としてある様々な手配を考えれば、予定としての死もあるだろう。この連作には、作者はすでに覚悟を決めたかのような静けさがある。二首目の響き、三首目の淡々とした表現の美しさ。作者の父親にたいする敬意もじんわりとにじむ。