2020年10月15日(大沢優子)

「リモートは会社に行ってしてほしい」 しばらく前の新聞の川柳だ。似たような話をよく聞く。外の密を避け、家での密が続くにつれて、家族のストレスも高まるようだ。

いろいろな歌会や会合が、リモートで行われている。出かけていかなくてもよいのは、楽なのだが、やはり実際に会って話す方が、気持ち良いように感じられる。もとの在り方に戻れるのだろうか?

結社誌10月号から

しわがれる声もろともに腰伸ばし工夫は猫車(ねこ)を炎天に押す 国枝章司
矢印で右折左折が示されて<止まれ>はどこも命令形にて       同
鉄嗤うガード下なる騒音に肺葉深く息を吐きたり           同
光り濃き歩道の真中躓きて立ち上がる時われは老いたり        同

「道拓く」と題した一連に迫力がある。工事現場で働く人に、老人や、外国籍らしい人を見かけるようになって久しい。「しわがれる声」「腰伸ばし」と、炎天下に働く人を丁寧に描写して、場面を髣髴とさせる。強い制止力をもつ<止まれ>に着目するのも、危険と隣り合わせの現場ならではの緊張感だ。工事現場が大きな機械ではなく、人力に絞って、詠われている。人の働きによって、街が成り立っている当然を改めて感じる。

頭上を電車が通過するたびにあたりを震わす騒音を描写した「鉄嗤う」の強い比喩は印象的だ。未来の完成に向かう工事現場の歌の最後に置いた、街中でふと自覚した自分の「老い」の歌は、人や車の往来する中に、一人一人が抱えている孤独の時間の一つを思わせて深い。

遡りさかのぼりゆく原風景 念ひはつひに骨貝の絵に    加藤すみ子
サイン入れ絵筆を置けば一対のこころ詠へりわれの恋ひうた   同
波の音の韻律さびし骨貝はゆらり流離ふ詩を吟じつつ      同

「骨貝」というさびしい響きに反して、写真で見るその形は、巻貝を魚の骨のような棘が白く繊細に取り囲み、美しい。他の貝を食べる肉食の貝であり、貝紫として希少な紫色の染料を採り、貴人の衣装を飾った貝でもある。

作者の原風景にある念ひを具体的に知ることはできないが、骨貝は画材となりつつ作者の詩心と響きあう。波の音に合わせて流離の詩を奏でる骨貝は、広漠たる海のなかで会い得た奇跡の恋心のようにロマンを誘う。

理科準備室の骨格標本はだから哀しく立つてゐたのだ     吉田光子   
朝顔三つ切り抜き障子繕へば紙灯篭のごときこの部屋       同 
灯篭流しの帰りに父の買ひくれし瓶のラムネは涼しくありき    同

「紙灯篭」の一連は、かつて父と紙灯篭を流した夏の夜の思い出に添いながら詠われていて、今は亡き父への哀慕の情が胸を打つ。ひとり、亡き父の魂を慰めるための、こころのなかの灯篭流しは幻想的で美しい。川をゆるやかに下りゆく死者の魂に、命の流れを継いでゆく思いがあるのだろう。

今年のノーベル文学賞にアメリカの詩人ルイーズ・グリュック氏が選ばれ、村上春樹は今回も受賞を逃した。この賞への期待は秋の年中行事のようになっているが、今年、村上春樹の他に、小川洋子、多和田葉子の「Wようこ」が候補に挙がっていることを知った。二人とも私の好きな作家で、「胞子文学名作選」に収められた小川洋子の「『原稿零枚日記』抄」は淡々と書かれた文章を追っているうちに、不思議な別世界に入り込んでしまい、嵌ってゆく。

今年第一回塚本邦夫賞を受賞した、石川美南氏の歌集『体内飛行』に前書き付きの次の一首がある。

「飛行機で眠るのは難しい。そう思いませんか、お嬢さん?」
小川洋子「飛行機で眠るのは難しい」
贈られたる額縁の中まつしろな空間ありて 束の間眠る

束の間の眠りに就いたという作中主体は、真っ白な空間へと入り込んで、記憶もとどめぬ白い眠りのなかに置かれているようなイメージがある。小川洋子と石川美南の世界には親和性を感じる。

この歌集には、村上春樹の『ノルウェーの森』の一節を詞書にもつ歌もある。

けれど、私自身はむしろ多和田葉子に、ずっと関心を持ってきた。毎年11月に、ジャズピアニストの高橋アキと、自作を基にしたパフォーマンスを披露していて、何回か見たことがある。

2014年に発表された『献灯使』は、東北の震災後の世界を頭において書かれている未来小説である。大きな災厄に襲われてから、日本では鎖国政策が敷かれ、外来語を使うことは禁じられ、インターネットも自動車もなくなっている。この国では、老人が元気でいつまでも永らえ、若者はひ弱な存在である。100歳を過ぎている作家の「義郎」は、身体が軟弱な、「無名」という名の曾孫の世話をしながら、仮設住宅で暮らしている。

言葉が多様性をもって、次々に意味が変容していく小説は、ディストピアの世界といわれながら、 過去でもあり現在でもあり、絶望的でありながら仄かな希望も感じる。

多和田が、この書が発刊された2014年当時の、ロバート・キャンベル氏との対談を読むと、次のような発言がある。

私は、日本にもし独裁制が来るとしたらーー来るかもしれないという不安があるんですけれどもーー政府という存在がはっきりあって、それを批判した人が牢屋に入れられるという、わかりやすい形の独裁制じゃないと思うんです。そういうものなら、世界各地に最近まであったし、今もある。そうじゃなくて、正体不明のじめじめした暗い恐怖が広がって、「怖いからやらないでおこう」という自主規制のかたちで、人間としてやらなければならないことを誰もしなくなるような恐い時代がくるかもしれないと思うんです。

当時よりさらに切実な言葉である。 

歌評(月2回更新)

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