2018年5月15日(吉田 光子)
人形供養をしたいと言う友人に誘われて松平家・徳川将軍家の菩提寺である岡崎市の大樹寺へ行った。初夏の明るい陽射しを抜けて本堂に参拝。振り返ると山門を通して一直線上に岡崎城が小さく見える。三代将軍家光による伽藍造営時に計られた眺望は、侵されることなく今に続いているのだ。次いで、「松平八代墓所」の矢印に従って進む。すると、樹木に守られるように静かな一角にその墓所はあった。
大樹寺の八代の墓そがいなる春たかむらの光しづけし
家康公薨去350年祭の記念歌会で佐藤佐太郎が詠んだ歌と聞くが、篁を背に歌そのままの厳かな趣であった。
では。結社誌「短歌」5月号より
言ひ訳の長き手紙を読み了へぬ白梅先のさきまで咲けり 州淵 智子
群れざれば知らずに過ぎにしこと多しひとりの自由ひとりの孤独 同
持ち得るもの少なくあれど雲うまれ雲ながれゆく窓三つもつ 同
メールやLINEに慣れてしまうと、手紙をかいて投函するということには何か格別のたたずまいが感じられて、受け取る側の気持を温かくしてくれる気がする。けれど、届いたのは心に響かぬ言い訳ばかりの手紙。それは作者にとって虚しいものであったに違いない。そんな時、作者の視線がふと捉えた清らかな白梅。静かにひたすら命を謳いあげる白梅に作者がどれほど慰められたかは、「先のさきまで咲けり」という描写に表れていよう。2首目は、人と人とのつながりの淡さから生まれた感覚を、丁寧に掬い上げている。そして、かすかな寂寥を感じながらも、そうした自身の生き方をきっぱりと諾っている作者の姿が浮かび上がってくる。3首目に歌われた窓とは、どんな窓なのだろう。実際の窓でもあり、作者が心に抱く窓であるのかもしれない。三つの窓は、東、西、南、それぞれの方角に向いていてほしい。冷たい風を呼ぶ北向きの窓は避けておこうと、不届きな私は思ってしまう。また、「雲うまれ雲ながれゆく窓」という表現はなんと豊かな詩情を孕んでいることだろう。雲は自由の象徴でもあろうか。心を委ね安らぐことが可能な窓なのである。
太陽は南中しつつきさらぎの真昼の空の青すみわたる 川野 睦弘
はなびらの春を季節にかへすべく生きよ終りのはじまりの日々 同
歌のすみずみにまで、清々しいおおらかさが満ちている1首目。しかし、2首目には、かすかな翳りが見受けられる。時が来て花開くこと、それは命を終える日へと踏み出すことなのだ。美しくめぐりゆく季節への哀しみを帯びた眼差しが、人間の一世に重なって詠まれているように思った。
雪解川夜通し水のあをき音聴きつつ夢まで青し眠りは 安部 淑子
菜の花の光くぐりて逢ひゆかむ此の世彼の世の愛しき人に 同
雪解け水は、春の訪れを告げて豊かな水音を響かせる。夢までも蒼く染めあげてしまうと歌う1首目、そして、ひかり降る菜の花の野に愛する人たちと逢いたいと願う2首目、どちらも震えるような感性のきらめきがある。春の陽を返す菜の花畑は、確かに此の世彼の世の人たちの魂が行き交うところであるのだろう。
人ばかり見てきたからか動物になりたくなった キリンを見ている 坂神 誠
走るのをやめてしまった動物ら千年後キリンの脚はきっと短い 同
長い首と脚を持つキリンは、中国の伝説上の霊獣「麒麟」に名の起源をもつという。キリンの顔を間近で見たことはないが、立ち姿や歩く様子など全体的には達観した雰囲気が漂っているように思う。人とのかかわりに倦んだ作者が動物になれたらと夢想しキリンを見つめている1首目は、不思議な世界のようでもあり、納得させる力を秘めた世界のようでもある。2首目は動物園で飼育されている動物は機能が退化するのではと危ぶむ。考えさせられる歌だ。千年後あるいはすでに今も少しずつ、人間たちは考えることをやめてしまっているのかも知れない。もし、そうだとしたら……と問いかけている気がする。
次に、新鋭短歌シリーズとして書肆侃侃房から発行された『つむじ風、ここにあります』を取り上げたい。ちょっと変則的な角度から視線を投げかけふわりと着地させた、そんな印象の歌集である。作者の木下龍也氏は、主にネット上の短歌空間で発信している歌人の一人で1988年生まれ。
つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる
歌集名となった一首は、やさしい囁きで提示されている。風に空き袋が吹かれているという何でもない風景を掬い上げて独特の切り口で切ってみせ、抜かりなく詩をまとわせたとでもいおうか。風を教えてくれたのは、女性の乱れ髪でもなく揺れる梢でもなく翻る旗でもない。抒情からほど遠いはずの菓子パンの袋だというのがボディーブローのように効いてくる。
花束を抱えて乗ってきた人のためにみんなでつくる空間
ショッカーの時給を知ったライダーが力を抜いて繰り出すキック
カレンダーめくり忘れていたぼくが二秒で終わらせる五・六月
見知らぬ人のために空間を作る優しさを見逃さない作者は、2首目で、ショッカーの時給は仮面ライダーよりずっと低いであろうから、キックの力を思わずセーブしちゃうんじゃないのと歌う。ほっこりとして、そしてニコッとなる歌だ。3首目も映像が楽しく生き生きと立ち上がってくる。
たくさんの後ろ姿が運ばれるチヨコレイトの距離を保って
雑踏の中でゆっくりしゃがみこみほどけた蝶を生き返らせる
たくさんの孤独が海を眺めてた等間隔に並ぶ空き缶
母が死ぬ前からあった星だけど母だと思うことにしました
すれちがう人のどれかは天からの使者であるかもしれない登山
幼いころのじゃんけん遊びに「チヨコレイト・パイナツプル・グリコ」というのがあったのを、なつかしく思い出した。駅の雑踏を歩く人たちの間隔が六歩ほどだという発見が、「チヨコレイト」に置き換えられてウインクしているかのようだ。また、靴紐のほどけた蝶々結びを結び直す様子は「生き返らせる」という思いがけない言葉を与えられて眩しいひかりを発する仕草となった。「孤独が海を眺めてた」という表現が珠のような3首目。等間隔に並んでいるのだから、釣り人が残していった空き缶なのかも知れない。孤独なたましいが静かに息づいている感じがする。4首目、5首目も、説得力があるなかに作者独自の感性がぽっと点る。
ぼくがこわせるものすべてぼくのものあなたもぼくのものになってよ
愛してる。手をつなぎたい。キスしたい。抱きたい。(ごめん、ひとつだけ嘘)
心優しい歌を詠む人がこういうことをサラッと言うのは、なんだか少し怖い。無邪気な身勝手さが痛ましく響く。そして、一番大切なはずの「愛してる」だけが嘘だということ、さらにそれを「ごめん」をつけて告白していることに、ざらざらとした感触が伝わってくるのは否めない。ひょっとしたら、作者はこの時寂しい目で自身を見つめていたかも知れないのだが。
飛び降りて死ねない鳥があの窓と決めて速度を上げてゆく午後
なぜ人は飛び降りるとき靴を脱ぎ揃えておくのだろうか鳩よ
死を意識した歌から二首。いいようのない哀しみが、ときおり作者を包むのだろうか。どちらも透明感をまとって切ない。作者のアンテナに引っかかり選び取られた言葉は、死を想う時にさえ繊細な旋律を奏でるように澄んでいる。。
この若い歌人の抱える優しさを、温かなユーモアを、そしてひんやりした部分を、さまざまにたっぷりと閉じ込めた魅力ある 歌集である。