2020年12月1日(吉田光子)
角川書店発行の月刊「短歌」11月号誌上において「第66回角川短歌賞」の発表があり。最終選考に残った方の氏名欄に中部短歌会所属の米山徇矢さんの名があった。素晴らしいことである。心からおめでとうと申し上げたい。タイトルは「空が聴いてる」。これからもみずみずしい感性でますますご活躍されますように。米山さんが結社誌「短歌」に寄せられた多くの作品の中から二首紹介しておこう。
蒼(おお)鷹(たか)を待つ子の握る双眼鏡にやさしく灯れよだかの星よ
好きな子のうわさは耳に残るからプールの中でたまにくるしい
では、「短歌」11月号から
八月尽夢の枕に君は来て玻璃戸激しく叩きて起こす 内海 康嗣
もう来ぬと想いおりしに君は来た厳しき管理の彼岸を越えて 同
行けないよ行きたいけれど伊吹山更科升麻は今花盛り 同
「追憶」と題された中から三首。一連には、豊かに感情が迸る君とのエピソードが、また、夢に現れた君と子への尽きぬ想いが歌われて切ない。伊吹山は二人にとって特別な地なのだろうか。歌に詠み込まれた更科升麻とは、夏から秋にかけて白い小花を穂のように咲かせるキンポウゲ科の植物で、伊吹山には大群落があると聞く。一斉に開花すると白猫の尾が幾つも幾つも重なり合い揺れているかのように見えるそうだ。この語の清潔な響きが一首の抒情性を深いものにしてくれているといえよう。また、伊吹山に行きたいのに行けないのはなぜなのだろうと立ち止まらずにはいられない。そこには君との時間があまりにも濃く詰まっていて、つらさを呼び起こすからなのだろうか。それとも、コロナ禍が影響しているのか。更科升麻の花が風にそよぐ様子を思い描きつつ、この一連を読んだ。
職退くも癖抜け切らず新聞に誤植を探す況んや「短歌」誌 国枝 章司
輝ける時短くてわが魂はスープの底の胡椒の粒粒 同
チャペックの物語の中ロボットが一人歩きぬわれら危うし 同
退職した今も、新聞に短歌誌につい誤植を探してしまう作者。携わっていた仕事への愛と誇りが伝わってくる一首目である。続く歌では、仕事に打ち込んでいた眩しい日々は短く過ぎてしまったと少し寂しく振り返っている。そして、スープの底に沈んだ胡椒の粒粒になぞらえて退職後の心情が巧みに歌われている。スープの味をピリッと引き締める胡椒に自身を託した表現が素敵だなと思った。次いで三首目。チャペックが著した『ロボット(R.U.R.)を提示し、いずれ世の中はロボットに席捲されるのではと警鐘を鳴らす作者である。 AIの恐るべき浸透力を感じる今、深く考えさせられる一首であった。
昨日の雨畝間に残る畑に来て大根の種子うめてゆくなり 井上 清一
病む妻の我儘われは許せども許せぬ息子が時に怒るも 同
一首目、大根の種子を播くために作者はあらかじめ土を耕し肥料を施して、畝を作っておかれたのであろう。畝と畝の間の低くなっている部分に昨日の雨が残っているという観察力の確かさに惹きつけられる。具体的な描写がこの歌に輝く命を与えているのではなかろうか。二首目は私自身の日常を思わず見つめ直した歌であった。若者にとって、高齢者の緩慢な動作や我儘とも思える事柄は、時に、いらつきを呼ぶものなのかもしれない。たとえ母と息子の間柄であったとしても。あるいは、母と息子という関係であればこそというべきか。そこには、ある程度けじめをつける方が母親のためでもあるのだという息子ならではの考えが存在するようにも思われる。一方、作者は肩に力を入れることなくおおらかにそのまま妻を受け入れておられる。長年連れ添った夫婦に漂う穏やかな温もりに心を打たれた。
やや控えめながら、クリスマスイルミネーションが灯るころとなった。この季節になると思い出すことがある。「郵便局の近くに『三太寿司』というお店があるだろ。あそこはサンタクロースの隠れ家なんだぞ。」私がまだ幼かったころ、兄が重大な秘密を打ち明けるようにしてこっそりと教えてくれたのだった。私は五人兄弟の末っ子で、兄とは14歳離れていた。「お姉ちゃんたちにも誰にも言っちゃだめ。」と、兄は念を押した。約束を守るいい子でないとサンタさんが悲しむと信じた私は、どきどきしながら誰にも言わなかった。そして、三太寿司のお店の前を通る時は、何だったか忘れたけれど欲しいものを心の中でちゃっかりアピールしていたような気がする。冗談好きの兄にからかわれたのだと、そのうち何となく気づいたのだが、ほんとうにサンタクロースの隠れ家だったらよかったのにと残念でならなかった。遠い日の兄との他愛のない出来事は、ほっかりと温かく今も私を慰めてくれる。