2018年8月1・15日(神谷 由希)

暦の上では既に秋、けれど颱風をやり過ごして後の暑さはまさに「惨暑」だ。立葵もマリーゴールドも咲き疲れているように見える。メディアも、当局も「警報」を発し続けているが、クーラーなる人工の冷気に長く曝されていると、体の組織から思考能力まで退化して終う。八月六日、九日は「原爆記念日」、日々の暑さはあの日の劫火に比ぶべくもないが、慎んで心を整え直し、結社誌に向かおうと思う。

玻璃ぬちに何をか秘めむラムネだま透かし見たりきとほき青空   大塚寅彦
雄(を)といへど水母とふ名にゆらゆらと命まろしも海ただよひて   同

涼しさを感じさせる二首。一首目、なかなか見かけなくなった球入りのラムネ瓶だが、飲む時どこか童心に返る気がする。不透明な青いがらすの向こうに、どんな世界を見たのだろうか。二首目、雄性でありながら「母」の字が当てられているのにふと面白さを感じ、海にただよう自由を少し羨ましく思っているような気がする。

六月になりても燕の飛ばぬ町 水張り田少し光りて在るも     早智まゆ季
劇的にかはることなくゆっくりと記憶書き換へゆくやうな町      同
風通ふ檪林がなくなつて徒労のごとく上がる噴水           同

さりげない詠みぶりであるが、「水張り田少し光りて在るも」が美しい。燕が来なくなった事と町の変貌、すべてはいつとなく記憶の中で書き換えられ、突然目の前に現れる。

きみの腕時計に生まれ変われたら鼓動を刻むきみの時間を    淀美佑子
スローモーションのなか急ぐ脈拍 恋ごころには鳴らぬ目覚まし  同

結社誌には珍しい、身体的な相聞の歌。作者の年令から来る濃密さがある、若くしてデビューした人たちの、一種神経症的、自虐的な歌作りと違って、年令を重ね、家庭を持ち成熟した女性の感性が、熱っぽく感じられる。

続けて七月に刊行されたばかりの『片山廣子』(本阿弥書店刊)は、中部短歌編集委員・選者の古谷智子氏が、二年半にわたって「歌壇」に連載したものを纏めた労作である。どうしても触れておきたい。膨大な資料と、丹念な考察の上に細やかな筆致で書きこまれた歌人片山廣子の姿が、鮮やかに浮かび上がって来る。歌人であると共に「松村みね子」の名でアイルランド文学の翻訳に携わり、芥川龍之介始め、多くの作家たちと交流で知られる女性であるが、そうしたサロン的な華やかさに反して、生活は孤高とも言われる静謐なものであったらしい。高い知力、精神力を内に保ちながら、時代の規範と自制に依って生きた女性の凝縮された内世界を、巻末の代表歌の中から、読みとることが出来る。

ことわりも教も知らず恐れなくおもひもままに生きて死なばや
女なれば夫(つま)も我が子もことごとく身を飾るべき珠と思ひぬ
あまざかるアイルランドの詩人らをはらからと思ひしわが夢は消えぬ
わが傘のみ一つ見ゆるかと心づき葦はらのなかに傘たたみたり
まつすぐに素朴にいつも生きて来し吾をみじめと思ふことあり

古谷智子著『片山廣子』代表歌より抜粋

終りに、「短歌研究」八月号所載、第八回「中城ふみ子賞」について記しておきたい。受賞作は、イシカワユウカ「舞ひ踊るをんなたちの裸体」である。一読、驚いたというのが正直な感想。曾て結社同人中畑智江さんも受賞したが、その頃の選考内容との相違は余りにも大きい。もう一度読み返した上、選者の桑原正紀、田中綾、時田則雄三氏の選評を読んでみた。三者共、歌壇に新しい風を起こしてくれる〈ちから〉、他者を借りてのなまなましい自己表現を選考の理由に挙げている。ふみ子の「花が何かの塊(マッス)の如く圧(お)し来たる夕べを戦ふちから生れよ」を指針とする選者もあった。ストリップ・ティーズを題材に、同性からすれば余りにストレート過ぎると思う表現もあれば、また作者が必死に何かを掴みとろうとするもがき、自らが脱ぎ捨てて光のもとに曝したい情動が感じられる。それは作者の精神のストリップ・ティーズそのものだ。脱ぎ捨てて終わった後に何が残るだろう。〈ちから〉は何処へ向かうのだろう赤裸々な詞は一時(とき)、鮮烈に人を驚かす。然し、その衝撃が去った後、作者は更に成熟した新しい境地を求めなければならないし、それは詞だけで支えきれない世界であるに違いない。   以下抄出。

こんなにもすぐ手の届く場所にゐて死ぬ前のやうにのたうつ裸体
足ひらくあの娘はまるであたしだわをんなであること許される場所
肉塊に突起が二つ穴一つそれだけで価値がつくんですつて
たましひの在りかもわからず吐く息は照らすライトの七色に光る
おつぱいに触りますかと手を引いて紙幣もぎ取る 減るもんぢやなし

いつもながら疑問に思うのは、この世代の人がなぜ、旧かな遣いで詠うのかという事である。

歌評(月2回更新)

ページのトップへ戻る