2016年1月15日(神谷由希)

思いがけない程、穏やかな暖かいお正月が過ぎて日常生活が戻って来た。早々と梅が咲き、菜の花が咲き、地方によっては桜まで咲き出すという陽気が続くなか、スキー場では“雪降らせ給え”の祈願が行われる情況だったが、世界情勢はそんな緩みを許さない。当方には縁のないことだが、株価不安やら、頻発するテロやら、予断を許さぬ事態が続く。年の初めに不安ではあるが、結社誌一月号に目を向けることにする。

煌々と月の光はおし照りて窓の辺りに誰か来てゐ     山内 照子

古典的な詠みぶりの中に、月光のもつ一種不気味な気配が表現されている。月光が余り明るいと却って不安になる気持は、古来よく歌に詠まれていて新しくはないが、“何か”を想像させる雰囲気はある。

美しく青き蜻蛉を踏みつぶす子どもごころのさびしさ帰る   大沢 優子
人形屋に足くび百がならぶといふ足くびほのか笑ふものらし    同

一月特集の十首「廃市」を読んで、白秋の投影が作歌に美しくたゆたっていると感じた。多くの詩、童謡を生んだ白秋の作品には、永遠の“こどもごころ”がある。その延長線上に収監されるに至る一途な恋や、放縦な生活が生まれたような気がする。「足くび百」の歌は、短詩「足くび」に依るものと思われるが、原詩では人形の蹠に陽があたっているとある所を、「足くび笑ふ」と表現して、作者の稍偏奇的な感性を窺わせる妖しさがある。

メモ紙に打ち損じたる点字多し「バッハ」が「パパ」になるもしばしば  蟹江 香代

作者はあるいは目の不自由な方なのだろうか。連作中、「点字シールをなぞる」とか、「わが越えて来し悲哀のごとく」のような成句を見ると、そのような生活の中で、音楽に心を委ねておられる様子が、わかる気がする。<音楽は消える芸術>なら、短歌は<培う芸術>と申し上げたい。

懸命にひと日ひと日を乗り継ぎて気づけば既に晩秋の駅   宅見志津子

人生を駅に例える歌は多い。毎日のラッシュに揉まれて仕事に、家庭に、人々は懸命に生きて、やがて自分自身の晩秋を見出す。真摯な生への向き合い方と共に、しみじみとした哀感のある歌。

子の駆れる車窓の景はなめらかに葡萄の丘のひかり運べり   安部 淑子

連作から推察するに、心の病の癒えられた息子さんの運転で、葡萄畑の続く丘陵をドライブされたのであろうか。表現に少し無理があるようにも思うが、「葡萄の丘のひかり」が効果的で、ゆたかな光と風が、前途のあかるさまでも伝えてくれるような感覚がある。別作中の「蒼天のかなたに続くこの道であれ」は、作者の気持ちを充分に語って、力づよい。

また、この一月号では昨年度の各賞が発表されている。短歌賞長谷川径子さん、新人賞雲嶋聆さん、奨励賞太田典子さん、評論賞鷺沢朱理さん、おめでとうございます。

続いて、伊藤一彦氏の最近の歌集『土と人と星』より。

来む世には女に生まれ酒飲まむ男の酒をさらに知るため
鬱深き人は鬱なき者を責めぬままゆっくり円を紙に描きたり
四千余首の万葉集に歌ひとつもたぬ日向の国のうみやま

昨年、若山牧水生誕一三〇年に当り、『若山牧水―その親和力を読む』を出版した作者が自ら認めているように、牧水を始め近代歌人の影響を受けて、韻律を大事に、言葉を正しく創り上げられた作品集。一見地味な作風であるが、鋭い洞察力をもって人間性をしっかりと詠みこまれた作品の数々は、我々を取り巻く万象の力を改めて読み手に印象づけずにはおかない。なお、余談ではあるが、伊藤氏の高校時代の教え子に今年NHK大河ドラマ「真田丸」で真田幸村を演じる堺雅人がいて、彼は伊藤氏の影響により文学に深く傾倒するようになった由である。

歌評(月2回更新)

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