2020年7月15日(三枝貞代)

結社誌「短歌」7月号より。

すずむしの翅の震への寂しさかカタコトのカラダをひきずれば   雲嶋  聆

同人七月集より引く。タイトル「魚群の王」の一首目。カタコトのカラダという表現がなぜか私を捉える。このカタコトは〈片言〉を片仮名表記にしていると思われるのだが・・・片仮名表記にしたことによって、自分の身体であっても実体のない空虚さを作者は感じているのだろうと想像できる。誰しも、身体に力が漲って、前向きに生きられるときばかりではない。どうしようもない弱気の時も、沈みがちな気分の日もあるだろう。不安を抱えて暮らしている時は身体も健全であるとはいえない。万全でない頼りないわが身を引き摺って歩けば、すずむしが翅を震わせるほどの寂しさが押し寄せる。二首目に、お母さまが抗癌剤治療をしている歌が載っているので、闘病中の母を思うと湧いてくる言いようのない寂しさなのかもしれない。四句目と結句を一つのフレーズとして工夫しているところにもセンスを感じる。繊細な感性から生まれた一首であり、感受性豊かな作者が立ち上がってくる。

好きな子のうわさは耳に残るからプールのなかでたまにくるしい  米山 徇矢 

準同人の「青環集」のトップに掲載された六首のなかの一首。好きだと思っている女性に関することは、ちょっとしたうわさ話も聞き逃せず、いつまでも心を捉えて離さない。楽しいはずの泳ぎも、うわさを思い出しては胸がくるしくなる。その時の心情をぽろっと素直に詠んでいる。無防備な、そして技巧に走らない詠みがとても良い。  

「心」ではなく「耳」を、また、思い詰めてずっと苦しいのではなく、「たまにくるしい」という感情表現がこの歌を深くしていると思う。作者の切なさが私の胸に沁みてくる。ナイーブな自己を冷静に見つめられる目を持っている方だと思う。

庭隅に空色なしてあやめ咲く自粛続きに広ごる心         市岡利津子

一首を読んで、すぐにその情景が見えてくる、理屈のない詠みに魅かれた。外出自粛の続いている日々は気分も晴れない。庭に出てみると空色のあやめが咲き、その清々しさに心が洗われた作者である。結句の「広ごる心」には、空色のあやめに喜びを感じた思いを表現しているのは言うまでもないが、大空の青へと繋がり、読み手にも未来は明るいのだという希望を抱かせてくれる。あやめの花言葉はどれも素敵なものばかり・・・ 希望、愛、朗報など。具体を入れながら、説明に終わっていないところに詩が生まれている、調べの美しい一首だと思う。

レジを待つ人間はにんげん隔ておりキリンの首の一つ分なり    松岡 孝子

タイトル「えんどうの花」より引く。厚生労働省より新型コロナウイルスの感染拡大防止のためにソーシャルディスタンスが提唱され、今スーパーのレジ待ちでは、前の人との距離を2メートル取るように、床用シールが貼られている。この一首を読ませていただくまで、キリンの首の長さがいくらかなど思ってもみなかった。世界で一番キリンを解剖している、キリン研究者である郡司芽久著の「キリン解剖記」を読んで、初めてキリンの首が約2メートルだと知った。推奨されている社会的距離2メートルを、キリンの首の長さで表現したところに視点の斬新さがある。

全世界に広がっている新型コロナウイルス感染症の恐怖と、現実を静かに詠まれている。抗いようのない今をこのようにシンプルに詠める作者の力量、素晴らしいと思う。

今月号に大塚代表が「オカルト短歌の夜明け 投稿歌寸感」として記事を載せている。

かなり時間が経ってしまったが、今年の二月二日に、未来の選者である笹 公人氏を招いて「オカルト短歌の夜明け 言葉の不思議力」というイベントが開催された。イベントをやるきっかけになったのが、笹 公人氏との雑誌『ムー』における対談だったとの事。私も参加させていただいて、大変有意義で面白いトーク・ライブであったと思う。初めてお会いする笹 公人氏は穏やかなお人柄で、親しみやすい好青年であられた。

大塚代表との掛け合いに会場は笑いに包まれた。大塚代表が書かれているように、現代において複合的なテーマ設定の短歌イベントが多くあっていいのではないかという意見には同感である。

井川尚巳氏が当日の会場の様子を詳しくレポートされて、3月号、4月号に掲載している。まるで当日の、笹 公人氏と大塚代表のトークが再現されているほどの内容の濃い丁寧なレポートである。多くの方々に、再度お目を通していただけたらと思う。

最後に『窓』より、「サイバー歌会に思う」として、安部淑子氏が文章を寄せている。

緊急事態宣言の発令で、各地の歌会も休会せざるを得ない事態になっていた私たちのため、大塚代表の提案により4月と5月サイバー歌会が再開された。すべてをお世話して下さったのは、長谷川と茂古氏と堀田季何氏のお二人である。
二回のサイバー歌会に参加した安部淑子氏の、短歌に対する情熱がひしひしと伝わってくる文章に心から拍手した。以下抜粋・・・

今回の歌会では「ユーモア」(滑稽)のやりとりや一期一会の「挨拶」、
さらには言葉遊び的な本歌取りなどが楽しかった。又、自らのインスピレーションも刺激された。解釈と鑑賞にこだわるよりも、作品による心(霊)の交換とでも言おうか、「自然」に包括されるような感覚であり、歌会にも句会と同様、近代以前の日本的な何かが存在しているように思われた。(中略)短詩型文学の中で個を超えて自然に包括されていくような感覚は、近代以降の日本文学の「個」への沈潜とは対極をなす、日本人本来の大切な言語芸術の要素の一つであると考える。(中略)
歌への様々なアプローチが許される本会にあって、この二回の歌会における多面的な心の交感は、今後の短歌のありようについて自分なりに考えるよい機会となった。

安部淑子氏の短歌に向かう真摯な姿勢に学びつつ、私も詠みつづける努力を怠らないでいたいと思う。日々の暮らしのなかの小さな発見にも目を輝かせて。

歌評(月2回更新)

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