2012年8月1日(吉田光子)

上野の東京都美術館では、6月30日から「マウリッツハイス美術館展」が開かれており、おそらく世界でもっとも神秘的な眼差しで振り向いた少女が来日中である。フェルメールのこの「真珠の耳飾りの少女」は、すでにご覧になった方も多いことだろう。

私は、2000年に大阪市立美術館で、少女と出会っている。6月の終わりの強い日差しの中、絵に詳しい友人2人に連れられて長い列に並び、やっと、少女の前に立つことができた。洗ったばかりの葡萄のような眸、もの言いたげな唇、フェルメール・ブルーのターバンも、耳に光る真珠も、絵の中へ誘うようでもあり、また、見る者のたましいを侵しにくるもののようでもあった。カンバスからひかりが零れ落ちたように思ったのは、気のせいだったろうか。

12年を経ても、少女はやはり濡れた瞳で何かを訴えかけ、人々を魅了していることだろう。

今回は、そんなフェルメールにちなみ、「ひかり」と「青」を詠み込んだ歌を取り上げてみたい。

まず、結社誌「短歌」七月号より。

はつなつの雨の明るさ云うときに果てなく並ぶサイダーの壜 中畑智江

直接的に「ひかり」の語が入っているわけではないが、一首全体がひかりをまとっている。
夏の雨を歌ってなんと美しいことだろう。けれど、果てなく並んだサイダーの壜は、どこか危うさを孕んでいる。ふとした拍子に、きらきらと輝きながら壜が砕け散ってしまいそうな不安が、沈んだ温度でこの歌を包んでいるのだ。そして、しゅわしゅわと儚いサイダーの泡は、見つめれば哀しさを呼びおこすかのようだ。雨の向こうに作者が見ているものは、静かな諦念なのかも知れない。

はつなつの野を駆けて来し吾子の息かすかに樹樹の青さを宿す 太田典子

岡井隆の「抱くとき髪に湿りののこりいて美しかりし野の雨を言う」のしなやかな相聞に比し、健やかな若さが匂いたつ歌である。青さを宿した息づかいがみずみずしく伝わってくる。初夏の野に出て、背を伸ばし歩いてみたい。走ってもみたい。そんな思いにさせてくれる。

「青いターバンの少女」の眼に引きつけられわれはそのまま吸い込まれんとす 廣瀬俊子

少女の眼の引力を簡潔に伝えて潔い。上句の破調を下句がほぼ定型で受け止めて、無理なく着地している。納得させられる歌である。

次に、「歌壇」8月号から。

蒼い馬のまはりたつぷりひぐれたり祈ることあるごときゆたけさ 渡辺松男

「蒼い馬」とは、作者の心象風景に棲む馬なのだろうか。それとも、夕闇に包まれて蒼くヴェールをまとったかに見える実像の馬なのだろうか。どちらとも思わせて不思議な空間へと読者は導かれる。そして、そこに流れるのはゆったりと穏やかな安らぎである。祈りを思うこころは、大きな慰めに満ちていることを、しみじみとかみしめている作者といえよう。

草いきれ器官を巡るあおみどりいまこそ真夏の呼吸するべし 小島なお

身のまわりの界も、そして身体の内側さえもあおみどり一色に染まってしまったような感覚が、生き生きと伝わってくる。むせ返るばかりの草いきれに真夏の力強さが漲り、それに負けない溌剌としたオーラが作者から放たれている。また、「巡る」という表現にあふれるばかりの躍動感と生命力が語られていると思う。

歌評(月2回更新)

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