2017年8月1日(雲嶋聆)

八月の蝉はうるさい。五月の蝿と書いて、うるさいと読むが、八月の蝉も五月の蝿に劣らぬうるささである。八月の蝉と書いてうるさいと読んでもいいのではないか、そんなふうに思われてならない。
さて、結社誌は七月号から。

ほうほうと朝を鳴く鳩さびしさを胸に銜へてゐるのだらうか  吉田光子

朝、鳩の声を聞かなくなって久しい気がする。7月に入ってからは、ずっと蝉の天下が続いており、もう少し早く、蝉が活動を始めるよりも早く起きることができれば、あるいは鳩の、そこはかとなく郷愁を誘うあの声に出会うこともあるのだろうが、なかなか叶わぬ夢である。
作者は、鳩の声をさびしさに結びつけている。たしかに、あの声はさびしげにも聞こえる。新古今和歌集に、

古畑のそはの立つ木にゐる鳩の友よぶ声のすごき夕暮     西行

というのがあったが、吉田作品の鳩の声のさびしさは、西行の鳩の「友よぶ声」とも響きあっているように思われる。
また、「さびしさを胸に銜えてゐる」と鳩の姿を描写しているが、ここからは朝のうっすらと白い空気の中で、首をすくめるようにうずくまって鳴く様子が立ち上ってくるようである。

身めぐりにいくつもの弧を浮かばせて円舞曲(ワルツ)は部屋のインテリアめく 蟹江香代

聴覚を視覚によって捉え直し、音楽のきらびやかなイメージを立たしめた一首。
「廃墟少女」(尚月地)というマンガの短編集に「音楽が見える男」という作品が入っていて、それを思い出した。どんな話かというと、すぐれた技量を持ちながら時代の流れに乗れず、売れない演奏家として音楽学校の教師をしている男の話で、彼には音楽が明確な視覚イメージとして見える、というものである。マンガ作品の方は、音楽が楽しいというより恐ろしい幻想になることが多かったが、この歌は、弾むような上句のリズムといい、内容といい、むしろ楽しげだ。
ここで詠われている「円舞曲」というのは、ショパンの「子犬のワルツ」かもしれない、上句のリズムにある種の明るさ、無邪気に跳ね回る子犬のような明るさを見てしまったためか、そんなふうに思われてならなかった。

半熟の車内にまどろみ河ひとつ渡りてうつらうつらしており  国枝章司

7月号の歌だから、作られたのは恐らく春だろうが、しかし、一首に漂う倦怠感は夏の暑さに当てられたもの憂い気分と等しく感じられる。二句目の「まどろみ」という語の響きが、M音を発する際の口をいったん閉じて開く動作による、べたっとした感触のゆえか、汗ばむ陽気の中で目脂やら涙やら汗やらを目元にためてうとうとしてしまったときの感覚を呼び起こす。「半熟の車内」というのが、私にはうまく読み取れなかったが、しかし、半熟卵のように熟しきらない、すなわち夢と現のあわいをさまよっているような曖昧模糊とした状態を表現しているような印象を受けた。四句目から五句目にかけての「渡りてうつら/うつらしており」という切り方も、ガタゴト電車に揺られながらまどろんで首をカクンと下に折ってしまう様子をリズムで表現しているようで、印象深い。

今月は、「歌壇」の八月号で時代の転換点に詠まれた短歌という特集が組まれていた。大逆事件に始まり、太平洋戦争や地下鉄サリン事件等、東日本大震災に至るまで短歌がどのように時代と向き合ってきたかというのを、当時の作品に即しながら論じた特集である。

憲法の問題や、共謀罪等、急激に右傾化していく権力への危機感から、現在が時代の転換点であるという認識に立ち、これからの短歌はいかにあるべきかということを問おうとした企画で、興味深かった。ただ、個人的には、文学も政治も経済も、本当は東日本大震災のときに近代的なあり方を脱しなければならなかった(脱しようとする動きが恐らく殺されてしまった)という気がしてならないのだが。

以下、特集と響きあうようで印象に残った歌を「歌壇」八月号から引いてみる。

百姓を嘗めちやいけねえTPPしぶとく進める政治屋の諸君    時田則雄
月の明るい夜だ 河原の石たちが遠い昔を語つてゐるぞ       同
ごはごはのこのてのひらは太陽と土と水にて作られてゐる      同

共謀の真中にイエス立ちたまひくもりなき声にわが名呼ばれむ  大口玲子
押し黙り橘通りを歩きゆくデモに見惚れて転ぶ人あり        同
パン屑でいつぱいの籠をならべゆき群衆は美(は)しき夕焼けを見たか 同

時田作品は農という自らの現場と、近代主義的な国の政治とを対置させているような印象を受ける。とりわけ、一首目、農家ではなく「百姓」という語の選択に、一次産業の担い手として市場経済の歯車になるのとは異なる、自給的な暮らしを営む個人としての自恃、換言すれば、生活の全体性を回復する個として、自由主義経済の極地すなわち近代の象徴ともいうべきTPPに対峙する誇りのようなものを感じた。

大口作品は、国という権威の上位に神という権威をおき、かつ神と群集とが結びつく様を詠うことで、前者を相対化しているような印象を受ける。たとえば、一首目では、「共謀」という国にとっては犯罪行為にあたるものの中心に神であるイエスが立っていると詠うことで、国の権威が絶対でないことを表しているといえる。作者はクリスチャンであるから、無意識的な語の選択かもしれないが、「イエス立ちたまひ」と敬語を用いている点も、その意味で高い効果を挙げているように思われた。

歌評(月2回更新)

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