2019年10月1日(神谷 由希)

地上の何もかも灼き尽くして終うような酷暑がある日突然終りを告げ、あっさりと秋の気配に変わった。そこにはかつて日本の四季が持っていた風情も何にもない気がする。線香花火や蚊帳(今はほとんど見ないが)にお別れして、朝涼を楽しむというより、慌てて秋物を取り出す作業にとりかからねばならない。扇風機はまだ部屋の隅に置いたまま。何もかも変わりやすくてそして忘れられて行く。今夏初めてかき氷の大行列を見たが、タピオカミルクティー共々、忽ち飽きられ別の流行がとって代わるだろう。この国のトップリーダー達さえ右顧左眄、場当たり的な政見によって動いていることを思えば、無理もないかもしれない。
結社誌9月号より

白桜院鳳翔晶耀大姉とふ戒名さへや謳へるごとし         大塚寅彦
堺にて晶子語らふ女人らの(みだれ髪)さらり忌避するけはひ    同

美しい漢字の並んだこの御戒名は、見るからに与謝野晶子のものらしい。「白桜」は晶子自身が望んだ号という。結婚前の晶子の名前「鳳 志やう」が織り込まれていることも興味深い。「謳へるごとし」と比喩したした作者であるが、誦す時の感じは木管楽器などの澄んだ荘重な響きになるのかもしれない。
二首目、(みだれ髪)を忌避するとはどういう意味か、文字通りに解釈してよいのだろうか。5月29日、晶子の命日(白桜忌)に晶子を語る堺に集まり、その作品を語り合う催しが、昨年まで開かれていた。昨年は三人の女性歌人による鼎談があったのだが、現代の女流は『みだれ髪』には深入りしたがらないという傾向を、掛詞で語っているように思う。作者自身の『みだれ髪』への評価を知りたい気がした。なお、大塚氏には『名歌即訳・与謝野晶子』の著作がある。

はらからも夫も皆逝き標(しるし)なきかすめる旅路手さぐりに行く 杉浦道子
老いづけば未練なき世と語る口 目は株の値を朝刊に追う        同

老後は二千万円必要、否六千万円は…と喧しい昨今、よほど豊かでなければバラ色の老後など望むべくもない。それでも豪華列車は走り、マンションは売れ、美しいパンフレットが海外旅行に誘う。「この世に未練などない」と言いながら、株価に一喜一憂する、このambivalenceこそ生の本質であろう。

さみだれのゆふべはらりと落としたりうすむらさきの鱗一枚    安部淑子
いづこへとゆきしか背より剝がれたる鱗一枚くちなし匂ふ       同

読む人によってそれぞれ受け取り方の違う歌と思う。作中の<鱗>をどう解釈するか。うすむらさきとあるので、後述のあやめの隠喩のようでもあるが、二首目に「背より剝がれたる」とあり、また結句のくちなしは一首内に二種の花をイメージすることの落ち着きの悪さを感じる。したがってあくまで作者の身体的、耽美的感覚ととらえるべきと思う。「まどかな子宮(ウテルス)」を持つというような叙述からは、女性としての自らの身体に充足し、やわらかく包みこむような愛が感じられる。

次に、結社編集委員の古谷智子氏の近刊『デルタ・シティー』について小見を述べさせていただきたい。近来『片山廣子』の生涯を辿る畢生の著作を纏められ、お身内の不幸を乗り越えて令和元年に刊行された作者の第七歌集である。巻頭に「ドラマのやうに」閉じられてゆく婚家の現実を記し、身辺から旅行地の即詠、亡き弟君の思い出など、淡彩ながら作者の人生のありようを綴って、父君の被爆の地広島、すなわち表題の『デルタ・シティー』に至る集大成は、過去に多くの人々が関わった災害や苦しみをも語って、平成の世のsagaともいえよう。氏の反戦は声高に叫ぶものでなく「うすがみを剥ぐように」人々の記憶から薄れゆく物事を怖れ、まぼろしを追うように父君のルーツを捜し求める深い祈りから立ち上ってくる気がする。ごく普通の人々を襲った閃光はそれまでの生活を破壊し、全く異なる人生を歩ませることになった。円熟の歌人であり、また主婦である氏が詠まねばならぬと感じた原動力であろう。以下『デルタ・シティー』より抄出

思ひ出はドラマのごとし一幕が閉ぢられ舅の家が壊され
ピラミッドの胎内熱し半袖のシャツが産着のごとくに湿る
異国の旅 大和の旅のこもごもに溶けてわが身に過ぐる歳月
広島はデルタ・シティーかうら若き学徒の父の視界あかるむ
古本の『ヒロシマ・ノート』一円をよろこびたちまちその値悲しき
うすがみを重ねし歳月 夏ごとに剥ぐうすがみにこころ潰るる

歌評(月2回更新)

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