2018年6月1日(三枝貞代)

まず結社誌5月号より大塚代表の歌二首を取り上げたい。  

小面のしろさは骨の白さとも見え来る夜半を鵺(ぬえ)とほく啼く  大塚寅彦
まなじりの逆立つ白き狐面あかき唇(くち)ふと開くる夜なきや     同

「面」と題された五首より。小面は能面の女面のひとつであり、もっとも若い女性を表現したもので、可憐で美しい表情をしている。夜半にそのしろい小面をじっと見ていると、その白さはあたかも火葬された骨のしろさにも思える。昨年の四月、作者の大切な人との永遠の別れ。この一首を読むと、伝説の怪鳥トラツグミの異称でもある鵺(ぬえ)の鳴き声は愛しいひとが作者を呼ぶ声にも思われるのだ。その鳴き声はあまりにも寂しげで不気味なことから、地方によっては「幽霊鳥」とも呼ばれたとも言われているが、作者にとって鵺(ぬえ)の鳴き声は心を震わせる切ないものだ。幻聴であったであろう鳴き声、一首から醸し出される作者の深い追慕の情が伝わってくる。失ったばかりの頃の慟哭とは違う、いいようのない哀傷が胸に沁みてくる一首である。

二首目、白い狐面は京都の伏見稲荷大社でも有名な白狐(びゃっこ)のお面である。
赤く大きな口はどんなに語りかけても閉じたままで作者に優しい言葉をかけてくれることはない。お面にさえも愛しいひとの面影を重ねて心を寄せてしまう。淡々と詠んでいる下句に深層の願いが込められているように思う。作者が大切なひとを失った事実を知っているから、そのように鑑賞してしまうのであろうか。

各総合誌五月号は大塚代表にとって精力的な号であった。短歌研究5月号においては「現代代表男性歌人100人作品集」という特集が組まれ、タイトルは「男の宿題」となっている。「天に届かず」七首のなかから特に心に沁みてきた四首をあげてみたい。

幼き日〈ジャックと豆の木〉描きしわれ豆の木はついに天に届かず  大塚寅彦
生(あ)れざりしたましひならむ象鼻のすべり台より落ちぬ花びら    同
しろたへの迷宮なせる花満ちて死者に問ひたきこころ誘(いざな)ふ   同
みづからに宿題課せよと春日井建宣(の)らすや春野の穏しさの面に   同

一首目、作者の描いた、幼いころの叶わなかった望みとは何であったろう。二首目、散りくる桜の花びらが象の鼻よりすべり落ちて来た。あたかも再びをこの世には生れ得ない大切なひとのたましひのように作者は感受する。繊細な感性で詠み、結句「落ちぬ花びら」と表現したところに哀切の情が汲み取れる。三首目、今を盛りと咲き誇る桜花の下を歩くと、迷宮のなかに入ったように思われ、この世から去った親しかった人に問いかけたい気持ちになる。作者が問いかけた声にきっと返事はあったろう。美しい晩歌である。四首目、柔らかい春の陽ざしが野に降り注いでいる。その光景に亡き師春日井建の姿が立ち上がって来て、「テーマを課して歌の道を進めよ」と告げているように思われたのだ。天に昇っても愛弟子である作者に注ぐ師の深い愛は不変であり、作者の心の支柱であるのだと私には思える。  

結社誌に戻って、

アフリカに降る雨を讃へるごとくヨシダナギの揺るる乳房   長谷川と茂古
郷に入り郷に従ひヤギの眼を噛みつぶしをりナギは無心に       同

掲出歌は「慈雨」のなかより。ヨシダナギは、アフリカをはじめとする世界の少数民族を被写体に撮影する日本のフォトグラファー。2012年にはじめて少数民族と同じ格好になって撮影をし、2015年には「服を脱ぎ民族と同じ姿になる写真家」としてバラエティ番組の「クレイジージャーニー」で放映された。大変な反響がありその後この番組では時々取り上げられている。最近では今年2018年3月7日にも放送されている。写真家として怖れることなく果敢にその民族と同じ格好になって、心から溶け込んでゆくヨシダナギの生き様に驚嘆し、感動したことと思う。たった一度の人生を写真家として体当たりで熱く生きるナギの姿、そしてこの地球上には想像もできない独特の暮しをしている少数民族の存在を知ることができた歌である。
一首目の結句「揺るる乳房(ちちふさ)」に、少数民族の心をつかむためには裸も厭わない女性の強い美しさと心の豊かさが表現されている。

二首目、遊牧民の青の民族である「トゥアレグ族」と行動を共にした時の事だろうか。
生きるためには家畜も食料にしなくてはならない。生肉どころではなく山羊の眼である。
ここまでの覚悟がなくては心を許し合ったとは言えないのであろう。淡々と無心に噛むナギはある意味、崇高にさえ思えてくる。作者のそんな気持ちが一首からうかがえる。

新しい本の香りを吸い込んでどれを使うか栞をえらぶ     西田くろえ
父の背を越す気まんまん弟は牛乳びんを空にしてゆく       同

掲出歌の作者は14歳の少女である。真っ直ぐな眼差しと、瑞々しい感性に心が洗われる思いがする。おおらかで伸びやかな詠み、対象に向かう心の、なんて素直なことだろう。中部短歌会のなかで大きく成長してくれますように心から願っている。

一首目、新刊の本を開けると真新しいインクの匂い、紙の手触り、そして物語に触れられる喜びが湧いてきたのだ。いくつか持っている栞のなかからその本にマッチするものを選ぶという、その細やかな心遣いが発見であり詩になっている。二首目、弟を見る目が心底優しい。定型を崩さず、調べがよいので躍動感が生まれている歌である。

以前よりずっと気にかかっていた歌人小中英之の『小中英之歌集』現代短歌文庫を読むことが出来た。第一歌集『わがからんどりえ』、第二歌集『翼鏡』ほかの歌世界に没頭し、歌人小中英之の生そのものに強く惹かれた。しかし解釈、鑑賞をここに書くには私の読みはまだまだ幼稚で浅く、書きかけては訂正する、その繰り返しで時間を費やしてしまいとうとう締め切りを迎えてしまった。

『小中英之歌集』現代短歌文庫の中に著者の<追い書き>が掲載されているので、その中から少し抜粋させていただこうと思う。以下、〈追い書き〉より抜粋

この『わがからんどりえ』は、私にとって初めての歌集ということになる。昭和三十六年頃から不連続的に作歌をしてきたにすぎないので、いまだ早く、とも思ったが、この叢書の仲間を信じて加わることにした。歌数は380首ほどで昭和四十六年から昭和五十年までの歌群から選んでみた。作品の配列も手もとのものを並べただけだが、季節にふさわしいように動かしたものもあって、発表順ではない。  
―後略―

<からんどりえ>とはフランス語で、暦・カレンダーのことをいう。小中英之の師である安東次男の旧詩集の題名でもあると知った。1937年(昭和12年)に誕生し、2001年(平成13年)64歳のとき、虚血性心不全により逝去する。安東次男の唯一の内弟子であり、「短歌人」所属。生前に第一歌集『わがからんどりえ』、第二歌集『翼鏡』を出版し、平成15年に遺歌集『過客』が刊行された。『翼鏡』以後の二十年間の作品である全1949首が収められている三冊目の歌集である。装本・倉本修、解説・佐佐木幸綱、追い書き・辺見じゅんと書かれている。小中英之歌集には作者の歌論、エッセイほか、解説には岡井隆はじめとして三枝昂之、篠 弘、滝 耕作など数名の素晴らしい鑑賞文、小論が掲載されていて、本当に読み応えのある歌集である。歌人小中英之のたましいにかすかでも触れることが出来た喜びにいまは浸っている。

『わがからんどりえ』より好きな五首を。

氷片にふるるがごとくめざめたり病(や)むこと神にえらばれたるや
蟷螂のぎりぎり荒(すさ)む一瞬の美しければわが日日を恥づ
友の死をわが歌となす朝すでに遠きプールは満たされ青し
山椒の黒実噛むとき点鐘のごとき音にてかこまれゐたり
遠景をしぐれいくたび明暗の創(きず)のごとくに水うごきたり

歌評(月2回更新)

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