2013年5月1日(長谷川径子)
風薫る五月、燕が飛び交う空、五月四日は寺山修司忌、五月二十二は日春日井建の燕忌である。もうじきひとつばたごの白花が咲く。鶴舞公園の薔薇もみごろとなるだろう。
中部短歌4月号より
白猫は玄関先に肘つきて春の幸ひ一人占めする
あつたかいねみいたん、桜はまだかねえ <とりあへずニャアと言つておくかな>
長谷川と茂古
みいたんとのゆるい会話、この作者の視点はいつもユニークである。
骨折をせしゆえ生きてゆくことをもはや止めんと言わぬよ猫は
犬猫が災い遭うは飼主の身代わりなりと思えば頭をなづ
海野灯星
飼い猫の骨折の一連ながら、ある真理を歌っている思慮ふかい作者像が浮かぶ。
穏やかに母の隣りに眠る夜 寝息に息を重ねたりして
半袖の父のワイシャツ畳おり丁寧語にて論ずるごとく
青木久子
実家に帰省した歌。おだやかな家族詠にこころが温まる。ワイシャツを畳む喩の丁寧語にて論ずるが上手い表現だ。父母への敬意を感じる。
花の大気に紅のひかりの粒またつぶ ハーシェル知らぬ桜星雲
あかねさす紅(こう)牙(げ)紺(こん)牙(げ)のばらの棘にするどく雨はふりつづくべし
鷺沢朱理
現代花鳥の春のデザインと題する連作。たとえれば壁画、屏風、襖絵、の絢爛たる世界と古今調の韻律の巧みなしつらえになっている。粒またつぶ、紅(こう)牙(げ)紺(こん)牙(げ)のリズムがここちよい。
短歌研究5月号
現代の104人から
声をおとして
原発の稼働認める友人につとめて声をおとし対(むか)いぬ
経済の成長なくば・・・・・・またもどる彼は拠りたるその一点に
一素人談義だが・・・・・・
いかにせん核燃料のサイクルは 論の切れ間に一太刀返す
除染とは水で無理やり線量を他の地点に付け換えること
線量に日々をかこまれ福寿草ののぞくフクシマ三年目なり
蕗の薹を目に探しつつ線量は川の向こうが高いといえり
三月のひかりのなかに目に見えぬものを数値に換えて怖るる
小高 賢
三年目のフクシマ。蕗の薹、福寿草、春のフクシマ。
素人談義だが、トイレットのないベルサイユ宮殿と喩される原発の不全さである。
エッセイ「青春とはなんだ
一寺山修司、あるいはわが青春の一首」より
人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ
寺山修司『テーブルの上の荒野』
若い寺山修司がこんな歌を残していることに、高齢の部類に入っているこのごろ、私は、ひどく感心する。要するに人それぞれの人生は、二月の寒空を飛ぶ鷗のようなものだ。目的があるのかないのか、とにかく飛んでゆく。
アメリカの無名詩人、サミエル・ウルマンが「青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦(きょうだ)を却(しりぞ)ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と言うのだ」と言ったとき、晩年の自身を鼓舞させたに違いない。(後略。)
秋葉四郎
春日井建が五月の燕であったなら、寺山修司は二月の鷗であったと筆者は思うのである。