2016年12月1日(吉田光子)
柊の白い花が小さく咲いている。鋸歯状の葉は触れると痛いが、花は楚々としたたたずまいで控えめな香が漂う。そばで見ていると、心が洗われる思いがする。
初冬の気配がほのかに漂うそんな日に、稲葉京子さんの訃報を知った。ずっと中部短歌の選者をされていたのだが、最近、体調がおもわしくないとはお聞きしていた。けれど、そんなにもお悪かったとは……。しなやかに、ずっと見守ってくださるような気がしていたのはなぜだろう。入会が遅かった私は、近くでお話を聞く機会があまりなく、これからいろいろ聞かせていただきたいと、勝手に願っていたからだろうか。悲しみが、寂しさが胸にあふれた。
街は今日なにをかなしむ眼球なき眼窩のやうな窓々を開き 稲葉京子『ガラスの檻』
内包する哀しみを静謐な眼差しで包み込み骨格を与えて、昇華された歌の世界を提示されたことに感銘を受けずにはいられない。これからは空の高みから私たちを見ていてくださることだろう。
ご冥福をこころからお祈りいたします。
結社誌「短歌」11月号から
方舟のごとき車体にワイパーを酷使してなお展けぬ視界 吉村実紀恵
かなしみの核に柘榴を実らせて拾うほかなし神の布石を 同
作者の胸に宿るかなしみは、ひりひりと切ない。方舟に見立てられた車は、作者をどこへ連れていってくれるのだろう。作者はどこへ逃れようとしているのだろう。ノアの方舟のように、神託は下り、安息の地へと導いてくれるのだろうか。いや、そうではあるまい。今の作者は、先行きの見えない場所でかなしみを太らせていくしかないのだ。ともすれば自分を否定しそうになる不安感をひっそりと抱えて、それでもなお模索している作者の姿が浮かびあがる。真摯に生きようとするものにとって、羅針盤の指し示すゆくえは、時に残酷なのかもしれない。
まつりともなれば塩ひとつかみして舐めては放るここぞとばかり 山下 浩一
天体の炎ゆるさ中の夏祭り最前線を統べるこの俺 同
今、神に最も近き処をば気抜けの貌がゆきつもどりつ 同
祭りにかける心意気がみなぎった一連から三首。臨場感にあふれた歌いぶりに、夏祭りの熱気がいきいきと伝わってくる。統べる腕の確かさに、そして力強さに人々は一体となり、祭礼は最高潮となってゆく。高揚感の極みには、たましいは神の近くに捧げたような感覚となるのだろうか。三首目からは、そんなありさまが見てとれる。「火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔をもてり/(春日井建)」と呼応する世界かと思う。
近隣のかなしみ事を知りてより心の起伏おさえがたしも 山本八重子
花終えし朝顔の種まろく枯れしづかに秋へ傾いてゆく 同
身のまわりを優しく見つめ、丁寧に言葉を選んで詠まれた歌は、どれもが読者のたましいに柔らかく着地する。「かなしみ事」の内容はわからないが、抑制された表現が詩情を呼んで広がりを与えているように思う。二首目に詠われた、季節の静かな変遷はしみじみと美しい。作者の心の豊かさを思う。
続いて、千種創一歌集『砂丘律』。
千種創一は1988年名古屋生まれ。東京で大学生活を送り、現在はレバノンで働いているという作者の19歳から27歳までの歌を収めた第一歌集である。装丁は個性的で、ペーパーバックのような製本がなされている。中東を思わせる砂色の紙は荒く綴じられ、ガーゼのような布が背に貼られている。あとがきに、「この歌集が、光の下であなたに何度も読まれて、日焼けして、表紙も折れて、背表紙も割れて、砂のようにぼろぼろになって、いつの日か無になることを願う」とあるが、その思いがしひしと伝わってくるたたずまいといえようか。
新市街にアザーンが響き止まなくてすでに記憶のような夕焼け
アンマンの秋を驚く視野の隅、ぎんやんまだったろう、今の
生きて帰る 砂塵の幕を引きながら正確なUターンをきめる
君の横顔が一瞬(しっかりしろ)防弾ガラスを月がよぎれば
戦火の地に日々を送る作者ではあるが、直接的な戦争当事者でないこともあってか、薄い紗の布を透したように詩的な香りをまとって、映像が立ち上がってくる。二首目のように読点を積極的に使ったり、ふっと口語を入れたりしている歌が多いのだが、そばでつぶやきを聞いているかのような錯覚にとらわれてしまう。映画のワンシーンのような三首目。そして、自身へ言いきかせている言葉を、丸括弧にくるんだ四首目。ガラス窓をよぎる月の美しさに君をふと想ったのであろうか。でも、戦争に巻き込まれないとも限らない日常で、甘やかな感傷にひたるのは許されることではないのかもしれない。「防弾ガラス」の一語が、置かれた状況の厳しさを改めて示している。
わたしたち秋の火だからあい(語尾を波はかき消す夜の湖岸に
Marlboroの薫りごと君を抱いている、草原、というには狭い部屋
教会の鐘きくために窓をあけ、君は日曜日をとりしきる
急に君はちくわで世界をのぞいてる 僕は近くに見えていますか
手がふれたときから僕の背景で夕立がやまなくって困る
相聞の歌はみずみずしく、若さが匂うばかりである。一首目は、閉じる方の丸括弧をわざと外している。波に語尾を消されたことを表記からも示そうとしていることがうかがえよう。すでに述べたことだが、読点や一字あけの多用、口語の取り込み、また、字数(音数)のある程度の自由さなど、作者は短歌の形式をカスタマイズして、自分だけの世界を表出しようとしているのかもしれない。
最後に、一番気になった歌をあげる。短歌と詩のはざまを揺曳しているような歌である。
マグカップ落ちてゆくのを見てる人、それは僕で、すでにさびしい顔をしている