2013年6月15日(長谷川径子)
梅を漬けた。紫蘇は梅と合体するとより発色がよくなる。梅と紫蘇は最高の出会いだとおもう。結社誌「短歌」の表紙は百合の花、百合の花が今を盛りに咲いている。
中部短歌6月号より
新川の河口ちかくにかかる橋〈であい橋〉より湖水にであふ
目白二羽あそぶシャッターチャンスより幾ほども無く枝を飛びたつ
うみべりの展望デッキうつつなる彼岸をのぞむ場所に嚔(くしゃみ)す
川野睦弘
1首目であい橋とは洒落た名前である。一条戻橋、思案橋、ためいき橋など、橋の名が物語をもっている。であい橋より湖水にであふは、連作のプロローグとして魅力的なフレーズである。
2首目幾ほども無く枝をとびたつ の幾ほども無くは斎藤茂吉の赤茄子の歌の幾ほどもなきあゆみを想起させる。余裕のある歌い方だ。
3首め結句嚔(くしゃみ)すがうまい。ひょうひょうとした達者な作品である。
耳もとにささやく風をやりすごしわたしはわたしは揺れる菜の花
傷ついた花びらすいと水に浮くだれかの羽であつた花びら
紀水章生
1首め菜の花畑に踏みいっているのであろうか、菜の花になるではなく、わたしは菜の花の断定が魅力的だ。
2首め傷ある花びらは誰かの羽であったという見立てに詩情がある。漢字とかなの配合のよい歌である。
太陽といふ語の本意(ほい)を訊かれけり季題の親と答ふれば足る
大腸といふ語の本意を訊かれけり糞便二文字書きてわたしつ
役員会まへはかならず腹痛む錠剤飲みていつも間に合ふ
批評会まへはかならず胸痛む良心捨てていつも切り合ふ
堀田季何
1,2首の掛け合い、3,4首のかけあいが愉しい。糞便なるものが短歌に旨く収まっている。批評会は武闘会か。有意義な批評会だと思う。
残生を如何に生きむと『夜と霧』二度読みしのち思惟する春夕
般若心経の〈空〉の意惟ひつつ団十郎の辞世の句を読む
垣見邦夫
『夜と霧』はアウシュビッツの手記、二度読むという作者は人間に正面から向かっている。般若心経には無、色、空、の文字が多い。「色は空、空は色との時なき世へ」という辞世をよんだ団十郎。作者の知的探究心がここちよい。
短歌研究6月号より
雪の日々
永井 祐
雪の日のわたしの椅子の本の山 大きな猫みたいに座ってる
大きな猫をどかすみたいに持ち上げて書籍の山を椅子からどかす
雪の日にカレー屋に行く雪の降る地域の人になってみたくて
雪の日に猫にさわった 雪の日の猫にさわった そっと近づいて
劇的なことのない日常の身巡りを感情を含ませず歌っている。古今の花鳥風月も、近代
浪漫も、前衛の修辞もない、ニューウエーヴのきれや軽さもない、独特な世界感もない、敢えていうならば、ゆるい写実か。現代の我を写す動画か。さりながら、ゆるさと思えるものはある主張をふくんでいて、意識された平明さであろう。なかなかてごわい永井短歌である。
君には君の僕には僕の考えのようなもの チェックの服で寝る
やわらかい言葉のなかの僕には僕の考えのようなもの。チェックの服・・・・無作為の作為、あからさまにはうたわない、永井の短歌は底ふかいと思う。