2020年12月15日(長谷川と茂古)
今年1月、武漢より帰国した人が国内初めての新型コロナの感染者となってから、一年が経とうとしている。日々の都内の感染者は400あたりから600人ほどを推移している。筆者は今月何度か都内へ出かける必要があって、通勤・通学と重なる時間に電車に乗るのだが、ソーシャル・ディスタンスをとる余裕などない。むしろ密接してますな。リモートワークはもうしないのか。せめて時間差通勤、短縮勤務になればよいのにと思う。
結社誌12月号より、
在りなれて廻りの世代変りたり世間狭まり独りごと増ゆ 水谷多津子
ストックの底つきたれば今日ひと日〈歌〉を拾うと町並歩む 同
たとえば同じところに長く住んでいると、隣近所の住人が入れ替わりや、世代交代があったりして、ちょっとした立ち話も気軽にできなくなってしまうことがある。交際範囲がせまくなると世の中さえも狭くなる、という。知人が減って寂しいという感情がまずあっての表現だと思うが、世間の広さは変わらないのではないか、と考えてしまった。二首目、歌の「ストック」が作者にはある。とてもうらやましい。それが底をついてしまった。実際じっとしていても浮かんでこない。ものを考えるのには歩くのが一番である。哲学者もよく散歩をする。「〈歌〉を拾うと町並歩む」に実感がある。
あの世なのかこの世なのかというほどの酷暑だった もう冬になる 大澤 澄子
揺れていた時がやすらぐ玄関の柱時計の電池はずせば 同
酷暑の度合いに「あの世なのかこの世なのかというほどの」という表現が、説得力があるのか、ないのかよく分からないけれど面白かった。インパクトはある。喉元過ぎればなんとやら、暑かった夏も冬になってみれば、記憶としてはあるが感覚が薄れてしまう。季節の繰り返しは毎年のことだが、春だといっては梅や桜だと浮かれ、夏には水遊びや冷たい素麺を楽しむ。当たり前だけど実に不思議なことだと思う。時計の電池交換だろうか、電池をはずすと針がとまった。ずっと動いてきた針が束の間休むのをみて、「時がやすらぐ」と表したところが良い。作者のその時計にたいする愛情も感じられる。
脳内でファミマの入店音が鳴るすべてのドアが同時に開く 西田くろえ
背後から照らす夕日が影のばし付箋の街は成長続け 同
ファミマの入店音=中に入る、という認識が刷り込まれたわたしたち。「すべてのドアが同時に開く」という想像できないようなシュールレアリスム的世界を描き出した作者。誰にでも経験のある1シーンをデフォルメしたのが面白い。二首目を読んだときは、ユーミンの「ハルジョオン・ヒメジョオン」の一節が浮かんだ。「川向こうの町から宵闇がくる 煙突も家並みも切り絵になって」というところだ。美しい夕方の景には、心を動かされ表現したくなる。夕方の歌だけを集めて眺めるのも一興。夕日に照らされて建物の長い影ができるのを作者は「付箋の街」と表現した。独特なのは一枚の絵のように捉えたのではなく、その影がまだ伸びていく→成長を続けるのだという。影が伸びるだけでなく、動きはじめるような予感もさせる。
夏くらいからだったろうか、YOASOBIの曲をよく聞いている。小説を歌にするという二人組のユニットで、ボーカルの女性の声に透明感があってとても惹かれる。なかでも「夜に駆ける」という歌が、人気である。動画でこの曲を検索すると、ヲタ芸というのが出てきた。なんだ?と思ってみてみたら、「夜に駆ける」でヲタ芸(ダンス)をする動画。夜のブリッジを背景に5人の男性がペンライトを持って力いっぱい踊っている。どこか応援団にも似ている動きや、5人の揃った様子をみると、何回も練習したのだろう。ヲタ芸に対する熱意や、曲に対する真摯な姿勢というのか、とても好感が持てる。いいなあ。と思っていたら、今度は秋葉原駅周辺で踊る動画を発見。アキバボーイズというグループのこちらは創作ダンスである。閉店後の電気街で「夜に駆ける」を踊る男子たち。こちらも見ていて楽しくもあり、切なさが伝わるような感じ。てか、わたしはヲタ好きなんですな。