2019年5月1・15日(長谷川と茂古)

5月である。ああ、また5月がやってきた。暑かったこと、鉄線の紫の花の色、大勢の参列者。建先生が亡くなられて早15年になる。文化のみち二葉館では、春日井建展が21日から開催される。展示されるという白い仮面のライトが置かれた先生ご愛用の机の前で、少しの時間、向き合ってみたい。

結社誌4月号は、「さようなら平成」と題した特集が組まれている。自身の歌を三首挙げ、短文を寄せる、というものだ。

地下鉄に召喚されたる月曜日その蒙昧を傘で突き刺す   菊池 裕
ケイタイが混線したる宵闇に帰宅困難者とふ葬列      同

地下鉄サリン事件と、東日本大震災の歌を引いた。作者は、事件当時日比谷線で通勤しており、あの日も仕事に出ていたそうだ。たまたま遅れて出勤したため、遭遇することはなかった。「蒙昧」という言葉を使ったところが肝。二首目、震災の日の前日、作者は仙台から近い場所で仕事をこなし帰京していた。もし次の3月11日であったならばどうだったろう。宵闇から、だんだんと夜が更けてゆく先へと続く「葬列」。被害に遭わなかったのは偶然で、テロや災害とすれすれのところで生きているのかもしれない。

風あらき東京の夜に身を寄せて伝へたき言葉もつかと問へり   大沢優子

作者は東日本大震災の日、新宿都庁にいたと聞く。停電の暗いなか、不安を感じながらも「伝へたき言葉もつかと問へり」と詠う。理性の人だと思う。短文の冒頭、「市井に生きる私たちは、時代史のどこに私史を重ねられるのだろうか?」と問うてもいる。大災害による、多くの人々の「私史」は、それぞれの胸に刻まれている。

パレードの雅子妃のティアラ煌めきが中天までも耀わせおり   小野寺紀美代

当時、皇太子ご成婚のパレードを沿道で見守っていたという作者。九段坂を上りつめた時に、雅子妃のティアラが太陽に反射して、大きく煌めいた。今月、当時の皇太子は天皇に、そして雅子妃は皇后となった。作者にとって感慨深い令和元年となったことだろう。

作品は、大塚代表の歌から。

〈ヒト〉といふ檻なきことを確かめて獣園を去る春のいちにち    大塚寅彦
見てるよと遠ざかりゆく雲しろく君なき四月まためぐり来ぬ      同

「春の獣園」と題した一連、終りの二首を引いた。動物園に行って楽しめる人もあれば、そうでない人もいる。筆者は後者だ。どうしてだか動物をみても、人の顔にみえて、こんな人いるよなあと思ってしまう。そのうち、動物をみている人間の方に目が行って、楽しめないのだ。一首目を読んで、そんなことを思った。二首目は、挽歌。「遠ざかりゆく雲しろく」が美しい。「君なき四月」とはいいながら、亡き人の存在をとても感じる一首。

越冬をする鶴の居て過疎進む我が住む町を僅かに照らす    左山 遼
伊予はげに蜜柑どころよこの月の末になりても温州がある     同

四万十に住む作者。日々のなかで、素直な心の動きを捉えた歌が並ぶ。越冬する鶴の姿、愛媛の温州みかん。それぞれが歌のなかで、存在感を増すようだ。淡々とした詠いぶりが良いと思った。

さて、新年度は「気になる一首」を挙げて、つらつらと思ったことを書いていくことにした。「つらつら」加減は書き手に任せるとして。

少年のマイケル・ジャクソン歌ひけるクリスマスソングの幸福家族 
『窓は閉めたままで』 紺野裕子

この「クリスマスソング」は、「ママがサンタにキスをした」のことだろう。ジャクソン5時代の歌で、マイケルが12歳のときに発売された。なんとなく引っかかるのは、結句である。いつだったか父親が兄弟たちを虐待していたという話を聞いたように思う。真実はどうでも、仲のよい兄弟、幸福な家族のイメージで売る、となれば、作り上げるのがショービジネスの世界である。サンタは当然パパということを分かった上でわたしたちはこの歌を聞く。サンタの正体を知らない幼い子供が素直な声で、「大変、ママがサンタにキスするところをみちゃった」と歌うなんという可愛いさ。つまるところ結句の「幸福家族」の姿が浮かんでくるわけだが、ストレートに読めない。なんとなく引っかかってしまう。そういう読者への効果を、この作者は狙っているのだと思う。大変に歌の巧い作者である。「幸福家族」というイメージのあやうさを問う一首。今年の6月、マイケル・ジャクソンが亡くなって十年が経とうとしている。

歌評(月2回更新)

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