2014年2月1日(長谷川と茂古)

HP歌評はじまって以来、少しお休みをいただきました。明けて新年、本年もどうぞよろしくお願いします。
 早速、結社誌1月号より。

バタフライの腕(かひな)うつくし青年の背はしなやかにうねりながらに   古谷智子

プールでのひとコマ。水泳に限らず、鍛え上げられた身体を視るのは楽しい。たとえば、バレエ。トゥで立つときの姿、膝と足首、甲の曲線は見逃せない。もちろん、筋肉の付き方も重要である。バタフライは、この歌のように背のラインが美しい。腕を広げて水面へと落とすその繰り返しを見ていると、人というより何か別の生き物に思えてくる。また、「しなやかにうねりながらに」と続いたまま終るところが好い。

失ひしスケジュール帳の明日から私の影が歩きはじめる  大沢優子

〈りゆうぜつらん〉言へば痺れる舌先は竜の吐息に触れたるやうな   同

連作「マ・ノヤマ病院」から二首。スケジュール帳を失くした作者。本人には予定が分からないから、影がスケジュールに合わせて歩きはじめるという、幻想の物語。二首目、確かに言われてみれば、そうだ。「言へば痺れる」感じ。さらりと詠いながらも、結句の「竜の吐息」にドキっとさせられる。

食卓の醤油の輪染みぬぐいつつ夜ふけに帰る人を待ちおり      長谷川径子

連作「秋のいちにち」より。家族の帰りを待っている夜更け。食卓に何気なく座っていると醤油さしの置いたあとを見つけた。何より醤油の染みが、圧倒的に生活感、存在感を思わせる。それを、ぬぐうという行為と待つ、ということが歌に奥行きを持たせる。作者の、家族に対する感情を言葉に表さないことによって、深みを増すようだ。

銀杏葉の意味なき燦(さん)につつまれて行く先をふと忘るる歩み  大塚寅彦

鴉天狗のやうな形のマスク増え集会めけり電車まひるま        同

一首目、見事な銀杏の葉。黄金色に包まれて日常の外へと踏み込んだような感覚。作者はどこか理性で留まるような意思として、「意味なき燦」というのだが、歩みをふと忘れてしまう。結句が生きてくるよう作られている。二首目、現実の景色をぱっと異世界へすり替える。四角いマスクではない、嘴に似た感じのマスクだろうか、電車内の何気ない風景が天狗の集会にみえてくる。

続いて総合誌は「短歌研究」1月号より。特集二に「挨拶のことば」。「土地ならではの元気が出るような挨拶のことばを詠っていただ」く、というものだ。たしか昨年、東北弁のできる医師を探している、という新聞記事があったと思う。被災地で、身体についての感覚や気分を伝えるオノマトペが、東北弁の分からない医師に通じない不便さのためである。住む場所によって、代々話されてきた土地の言葉。日本語の豊かさを支える一つの柱と言える。

この寒さのさん、のさんと言いながら上がりがまちに娘が靴をぬぐ    田頭律子

長崎は佐世保にお住まいの方。「のさん」とは、暑さ、寒さ、疲れ、悲しさなどに「のさん」をつけて、遣う。耐えられない、という意味らしい。「のさん」、柔らかい優しい音である。

ナポレオンの妻ともならず若牡丹「いいちこ」かおる鄙(ひな)に育ちて  五所美子

北九州市の方の作品。うん?方言がないぞとおもったら、「いいちこ」だった。「ちこ」は強意を表すとのこと。焼酎の商品名として認識していたが、目からウロコである。「いいちこ」と同じ製造会社では「和香牡丹」という商品もある。なるほど。

「ばんじまして」定かに見えねど人の過ぐ夕霧深むわが家の前     酒井悦子

島根県松江市の方。暮れかかった頃の挨拶、「ばんじまして」。すっかり夜になってからの挨拶と分けるところが、なんというか律儀だ。歌をみると、人の顔が定かには見えないとあるから、逢魔が時なのかもしれない。

「ほやほや。」とうなずきあって確かめる新しき年のあたたかさかな   現川尋香

福井県永平寺町の方。「ほやほや」=「そうです。そうです」。関西圏では広く通じるのではないだろうか。「ほーや」「ほやけん」「ほやな」など、バリエーションが浮かぶ。改めて字でみると、のんびりと、ゆったりした時間が流れるようだ。

「なじょった」と傷の具合を聞く母に「さすけねって」と空威張る子ぞ  三瓶弘次

この台詞は、昨年の大河ドラマでよく聞いた。福島市の方の作品。大丈夫、我慢できるという意味の「さすけねって」。ちなみに作者の名字、「三瓶」は福島の中通りに多い名前である。苗字も、土地と深く関わりがある。

歌評(月2回更新)

ページのトップへ戻る