2013年12月1日(神谷由希)

唐突ではあるが、今年はJ・F・ケネディ暗殺から五十年という事で、俄かにマスコミが騒がしくなった。折しも、遺児であるキャロライン・ケネディが駐日大使として赴任する事態になり、彼女のプロフィルが毎日のようにニュースに登場する。J・F・Kについては、謀殺説、犯人複数説など、さまざまな憶測が飛び交った五十年であるが、ウォーレン報告後、伏せられていた情報が一部開示されたこともあり、<真実>を求める動きが過熱している。ダイアナ妃然り、M・J然り、超有名人の死には常に謎がつきまとう。そもそも、真実とは何だろうか。本人、あるいは当事者が死亡している場合、所謂<真実>も共に葬られて終りなのではないか。飛躍しすぎるようだが、短歌の解釈にも似たような所があると思った。作者の説明を俟つ以外、どんな解説も真実を語っているとは、言えないのではないか。読む側の智識と、洞察力にかかる部分が大きいし、表現者の力量もあるであろう。世紀最大の事件とは同列に語れないが、<ほんとうのこと>は、時に手の届かない所にあるような気がする。

さて、結社誌十一月号より。

茄子一個爆弾の形とおもひけり 制裁とよぶ攻撃もあり     大沢 優子

面白い詠みぶりである、茄子と言えば紫紺の色の美しさや、みづみづしさを詠まれるが、作者は黒ぐろとした手榴弾の形を思い描いた。(軍では形状からパイナップルと称するが)今もシリア、アフガニスタンで制裁の名の下に、無差別攻撃が行われている。日常のなにげない不安、正義の裏に隠れた悪意を読みとる力のある作者と思う。

時空間ならずも無限のおそろしさ例えば無限小数なども     玉田 成子

<無限>は短歌によく登場するが、無限小数とは小数点以下の桁数が限りなく続く小数である。微小な数字の果てしもない羅列は、物事の深淵を覗くようで、なぜか恐ろしい。

魔界ストリートの商店街の<付喪(つくも)神>愛嬌たつぷり客待ち顔に  赤尾 洋子

京都一条戻橋付近は、昔から魔界と人界の境のように言われている由。近年、心霊スポットや、パワースポットを廻るツアーも聞くが、ツアーの人々を少々揶揄するような歌も、一連の作品の中にあるので、作者の位置はよく分からない。お客を逃がさじと、愛想笑の妖怪のごとく待ち構えている商店街を、魔界ストリートと形容したのは、飄逸で面白い。

この地球人間社会が優越し、蝿よごめんと命頂戴す     大谷 宣子

人間が詫びねばならないのは蝿だけではない、私達は、あらゆるものの生命を頂戴して生きている。それは理屈であって、作者は一瞬心の中で詫びたのであろう。今、自分が叩き潰した小さいいのちに。上句はもう少し軽くできたかもしれない。

都庁から国立競技場までを車窓に眺む 廃墟であろう     菊池 裕

モニュメントではなく丹下健三の<怨念>落日に曝されて      同

七年後のオリンピック開催に向けて、競技場の建て直しが論議を呼んでいる。収容人数、テロ対策、あらゆる名目はあっても、再建に群がる利権はおのずと見えて来る。作者の眼は既にそれ等を壮大な廃墟と捉えているのであろう。

続いて総合誌「短歌往来」十二月号より。

りゆうりゆうとあをまつむしの哭く夜が笞で女を殺しし魚玄機   日高 堯子

いつしんにいちじくを食べ、食べつくしやがてひつそりと悲哀す母は  同

魚玄機は晩唐の女性詩人。侍女を殺した罪で処刑されたが(森鴎外の小説では嫉妬からとされている)、その暗い情念と、あをまつむしの哭く声(ね)のオノマトペ「りゆうりゆう」が不思議に結びつく。その情念は又、熟れたいちじくを一心に食べつくす母、それを見守る娘に宿るある悲しみに、ひそやかに繋がるようでもある。

歌評(月2回更新)

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