2017年6月15日(雪村 遙)

まずは結社誌「短歌」6月号より。

伊邪那美のよもつへぐひを思ふとき夕餉のシチューふと沸立つも  堀田 季何
一杯の珈琲うまし亡き君が今朝の食卓に置いてくるれば        同

「容器」と題された一連より。
一首目はこの一連の冒頭歌。『古事記』によれば、伊邪那岐は死んでしまった伊邪那美を追って黄泉の国へ行くが、伊邪那美は「よもつへぐひ」をしたので、もう戻ることができないと答える。「よもつへぐひ」とは、黄泉の国のかまどで煮炊きしたものを食べること。夕食が黄泉の国の食物と重なる瞬間を捉えたこの歌において、「容器」とはシチューを煮る鍋であり、同時に黄泉のかまどを指しているのだろう。

二首目。この一連の最後の歌である。この歌の「容器」とはコーヒーカップであり、二句までは単に珈琲が美味しいと述べているだけように感じられるが、三句以下でその内容が鮮やかに反転する。飲み物を味わうという感覚的な悦びも、そのまま裏返って大切な人を喪った悲しみへと変容していく。「亡き君」は一首目の伊邪那美を思い起こさせ、読み手の関心は再び冒頭歌へと誘われていくことになる。果てしなく巡る輪廻のような、巧みな構成の一連であると思った。

今日も訪ふ病院の窓ゆ見下ろせる染井吉野の渾身の花      坪井 圭子
もしもこの白いベッドが舟ならば漕いでゆかうよあの桜まで     同

一首目。病院というのは壁もシーツも、全体的に白で構成されている。それ故に、視界に飛び込んでくる染井吉野の花のうすべに色は、より引き立てられて艶やかに作者の眼を捉えたのではないだろうか。命の重みを意識させられる病院という空間において、桜の儚さよりも力強さを詠いあげている点に心惹かれる。

二首目。ベッドに横たわる人に桜を見せたいという願いが、ベッドを舟に喩えるという着想に結びついていったのではないかと思う。作者が船頭になり、凪いだ水面に浮かぶ白い舟を漕いで、桜の下まで向かっていくという幻想的な映像を思い浮かべた。叙情的で柔らかい歌である。

続いて、光森裕樹第三歌集『山椒魚が飛んだ日』(書肆侃侃房)より。

ヴィオロンのG線上を移動する点Pとして指ひかりゐつ
部屋が飛ばぬやうにとおもひ増やしゆく家具かも知れず夜の海霧
雨なかに得る浮力ありいつよりか遠い何処かは此処だと決めて
ひとがひとを保たむとするまづしさを剥がされ吾も樹になってゆく

光森氏の作品を初めて読んだのは、第一歌集『鈴を産むひばり』(2010年)だったが、少年らしい淡い瑞々しさと、中世ヨーロッパの香りが混ざり合う独特の雰囲気を備えており、強く印象に残った。

その後、様々な生活上の変化を受けて、より現実に根ざした歌風に遷移してきたように思える。自己の置かれた状況を常に冷静に把握していく、鋭敏な眼差しを感じた。必要な知識や情報を充分に集め、丁寧に綴っていく真摯な姿勢に脱帽する。また、真正面から撃ちぬいていくような表現の的確さ、力強さも魅力である。

冬眠のさなかに生れたるみづからを仔熊と知りにき春は虹色
昇りつめ落ちはじむるとき一点の矢は線分となる桔梗色
有限のひつじにあれば人類は数へきるべし其は雲母色
二角帽飛ばさぬやうに翻るナポレオンフィッシュの露草色

「トレミーの四十八色」と題された一連より。

トレミーとは、二世紀の天文学者クラウディオス・プトレマイオスのこと。星座が載った星表を作成しており、これは後に「トレミーの四十八星座」と呼ばれている。また、光について研究し、光の反射・屈折・色彩に関する著作も残している。

本作品は、トレミーの四十八星座ひとつひとつを主題とした歌の中に、とりどりの色を詠み込んでいる。天球図にあらゆる色相を重ねあわせて、まるで天空に壮大な万華鏡を描きだしているかのようである。色彩名に西洋のものを使わず、日本の伝統色だけを連ねている点も、短歌ならではの趣を感じさせる。

歌評(月2回更新)

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