2017年2月15日(吉村実紀恵)

短歌の愛誦性ということを考えるとき、以前読んだ「言葉のリズムを生むもの」と題した座談会を思い出す。その中で道浦母都子さんが、「いつも声に出してつくっていた、歌イコール声に出して読むものだと思っていて。声に出してみてつまずきのある所は表現として不完全、耳で聞いてザラザラするところは直さなければならないと考えていた」と話されているのを読んで、そうそう!と膝を打ったものだ。短歌に曲をつけたり、フラメンコギターの伴奏で朗読したりという活動をされていた道浦さんらしい発言だが、私も二十代の頃はまったく同じように思っていた。歌とは音とリズムであり、意味は二の次という作歌姿勢だった。当時の私の作歌の教科書は、新鋭歌人たちの自選五十首アンソロジーで、自らリズムトレーニングと称して、毎日のようにひたすら音読していたものだ。

そんなわけで結社誌「短歌」2月号から、まずは愛誦性を考えるための二首を。

あの日から出しっぱなしの夏帽子東京駅で父とはぐれき  三宅 節子
ぐらぐらと卵黄のごとき月のぼる釣人は岩に影となり立つ   同

子供の頃、東京駅で父親とはぐれてしまった、あの時の寂しく不安な気持ち。夏帽子は人混みの中から父親に見つけてもらう目印だったのかもしれない。だがその帽子は今も出しっぱなしだという。あの日以来、父親とはぐれたきりだと言っているようでもある。夏帽子の象徴性は、読者にさまざまなイメージを呼び起こす。ある人はもうこの世にいない父親を想い、ある人は何らかの理由で父親との別離を余儀なくされたと解釈するかもしれない。あるいは心理的な距離が生じてしまったことを比喩的に詠んだ歌とも読める。いずれにしろ、読者それぞれの立場に応じた解釈が可能であり、この歌が持っている言葉運びの美しさとも相まって、愛誦性を獲得するに十分である。二首目は、幻想的な絵画を見ているような歌である。上句のひらがなと濁音、卵黄に喩えた月と釣人の影。いずれも一首における配し方が絶妙で、歌の呼吸を心得ている。幻想的な風景であるが、ある文化を共有する人々に共通の潜在意識に訴えるような風景でもあり、何度も読んでいるうちに不思議な実感を伴ってくる。それは時間の経過とともに読者のなかで個々の心象風景へと転換される力を秘めている。

満開のもみぢは今をほしいまま異国の人の声もはなやぐ   大久保久子
千年をいまに引き寄せ見返りの阿弥陀はその首左に向けぬ    同

旅行詠、特に海外旅行詠に対しては手厳しい意見が聞かれることが多い。旅の実況中継、さながら三十一文字で記されたガイドブックに陥りやすいということもあるだろう。何より、旅先での作者の高揚感が作歌において大切な客観性を失わせ、読者をおいてきぼりにする危険がある。ここに挙げた歌も京都への小旅行を詠んだ一連なのだが、どれも対象との距離の取り方がうまい。旅先の景色の一片を独自の視点で切り取って、新しい景色を提示している。一首目、上句では杉田久女の「谺してやまほととぎすほしいまま」を思い出すが、下の句においては一転、満開のもみぢの「ほしいまま」は外国人観光客の声のはなやぎと響き合い、最近あちこちで増えている訪日観光客の存在を際立たせる。二首目は永観堂の「みかえり阿弥陀」。阿弥陀像が須弥壇から降りてきて行道中の永観を先導し、「永観、遅し」と振り返ったという逸話は有名だが、この歌において阿弥陀が振り返っているのは、今を生きる私たちだ。千年の時を越えて左肩越しに振り返る阿弥陀如来像の姿は、現代文明のなかに生きる私たちをもなお「遅れた者たち」として待つ慈悲にあふれている。

続いて高橋律子第一歌集『硯の海』から。

ふるさとは雪降り積もる頃ならむ遠くにをりて都会はやさし
説明書みつつ仏具を仏壇に配してほつと亡き父母と話す
たらちねの母の死受け入れ曼珠沙華生けてけふよりひとり立ちせむ

表紙の題字は書道家でもある作者自らの筆によるもの。墨を含んだ筆が自在に文字を認めるような、柔軟で清々しい精神を感じる歌がたくさん収められている。一方で、その筆先が織りなす陰影のようなものを感じる歌に心をひかれる。故郷の盛岡を想いつつも、紆余曲折を経た作者にとっては、干渉のない都会の人間関係が今は「やさし」と感じられるのかもしれない。

苦境にある友より手紙届きたり再就職は告げずペン置く
通勤の道路工事のブルドーザーわれも健やかに仕事運ばむ
児童とて心の襞の大きからむ我儘も対話のひとつとなりて

作者は五十歳を過ぎて再就職を迫られることになる。児童図書館に司書としての職を得るが、あえてそのことには触れない。手紙の文字は作者自身の困難な経験に裏打ちされた心の翳りと、そこから生まれる他者への優しさの両方を帯びていることだろう。その優しさは、目の前にある仕事に真摯に向き合おうとする二首目、三首目に顕著だ。上句において、都会の一角を占める騒々しい道路工事の風景が詠われるとき、私たちは続く展開としてある種の予定調和を想像する。だがそれは見事に裏切られる。作者はそこに労働の美しさを、そして日々の些事に心を込めつつ道を拓く同志の姿を見ている。

歌評(月2回更新)

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