2017年7月1日(三枝 貞代)
まずは結社誌「短歌」6月号より
汝(なれ)と庭見しホスピスの終の春なほ過ぎゆかぬ吾に夏来る 大塚 寅彦
連綿の〈ゆめ〉の字ゑがく香の煙(けむ)手向けをりたり君が遺影に 同
ゆめと題された一連のなかの二首。作者の詠む、汝、君はこの四月十六日に亡くなられたもりき萌さんではないだろうか。2014年夏に乳がんが見つかり、左乳房切除のあと抗がん剤治療や放射線治療を続けていたが、2年後の2016年9月に再発し、余命宣告を受けてしまう。亡くなるまでの半年間の過酷な闘病の日々を命に真向かい、赤裸々に詠み続けられたその短歌が第二歌集『М子』として出版された。
もりき萌さんが生涯を全うするまで、癌と闘いつつ詠みつづけられた強い精神力はどこから来ていたのだろうと思う時、大塚代表のひたむきな深い愛があったからこそではないだろうかと思えるのだ。わが身の苦悩と孤独を理解し、共に闘ってくれようとするその思いは、彼女の生きる支えとなったことだろう。そして延いては、短歌を詠むという自己表現を心の支えとして最期まで自己を見つめ続けられたように思う。過酷な運命に襲われようとも、たった一度の人生を精一杯生き切ったもりき萌さんの生き様を私はいつまでも忘れないだろう。
一首目、ホスピスにいる汝(なれ)と眺めた春の光景、あなたが旅立ってしまった淋しさは言いようがなく今も私は二人で過ごしたこの春を忘れることはできない。そんな私に季節は淡々と巡ってもうすぐ夏が来る。静かに詠まれた喪失感が胸に沁みる。
二首目、遺影の君に手向ける線香の煙がゆらゆらとまるで〈ゆめ〉という字を書くように立ち上ってゆく。この世で果たせなかった君の夢も天へと昇っていくようだ。
さかさまに袴はきたるつくしんぼ子らの反抗期今はなつかし 橋本 倫子
春の土手で摘んだ土筆、その袴を取るときに作者は発見した。日常のなかのささやかな発見から発想が広がり、子育て真っ最中だった頃の子どもたちの反抗期へと繋がる。
時の流れの早さをしみじみと感じている作者が浮かぶ。暮らしのなかの小さな発見が大切だと教えてくれる一首である。
AIと対戦なすに正装で礼をつくせる将棋名人 杉本 直規
AIは修行もせずに名人を完膚無きまで打ちのめしたり 同
将棋界の天才といわれる、史上最年少プロ藤井聡太四段(14)が、ついに6月26日の今日、第30期竜王戦決勝トーナメントにおいて勝利し、公式戦29連勝を達成した。公式戦無敗のまま前人未到の偉業を成し遂げたことに、将棋界がまた日本中が興奮し喜びに沸いている。将棋を知らない私も心が震えるほどの感動を覚えた。
藤井聡太四段もAI(人口知能)を搭載した将棋ソフトを活用し、一段と進化した序盤力が、その類いまれな強さをさらに強くしていると言われている。
掲出歌に出てくる名人は佐藤天彦名人であろうか。人間の心を持たないAIに将棋名人が正装で対戦する様をユニークに詠み、そして名人を打ち負かすAIの強さをストレートに詠んだところに、作者の驚嘆している姿が見えてくる。将棋ソフトがプロ棋士に勝つのはまだまだ先だと言われていたのだが、今やAIは驚くべき進歩をとげている。将棋棋士とコンピューターの対局は2016年2回、2017年2回ともにコンピューターの勝利である。将来、若き天才棋士の藤井聡太四段がAI(人口知能)と対局する時が来るのだろうか。そんな夢を私に抱かせてくれた二首である。
座布団と思いておるやわが体横になれよと猫のしき鳴く 井上 清一
農作業に勤しむ作者は、今までもそこで出会う鳥や蛙などの生き物へ注ぐ優しい眼差しの歌を詠まれている。「三匹の」という一連のなかより引く。掲出歌の猫は三匹目の猫であろうか。共に暮らす猫は作者の身体を座布団と思っているのか、盛んに横になれと催促する。猫は作者の身体のうえに乗り甘えたいのだろう。そんな猫を心から愛しいと思っている作者の心情が伝わってくる。人間と動物のかよい合う心が伝わってくる実感のこもった一首だ。
次に今年4月に上梓された、山田峯夫さんの第二歌集『四葩の藍』を紹介したい。
山田峯夫さんは昭和45年に中部短歌に入会され現在に至っている。大変に長い歌歴のある大先輩の歌人で、2011年には結社の奨励賞を受賞されている。
第一歌集『藍より青し』を喜寿の記念としてまとめられ、10年経た今、米寿の記念として新たに詠み継がれてきた歌をまとめられたのが第二歌集『四葩の藍』である。まず歌集を手にしてそのセンスのある装丁にうっとりとなった。
有松絞りで有名な有松町に住み、また有松絞りの商家でもある作者の詠む歌は、格調高く詩情を感じる作品が心に沁みる。亡くなった妻を慕う気持ちを素直に詠み、また喪失感から少しづつ立ち直ってゆく心情を丁寧に詠まれていて、作者の今が立ち上がってくる。歴史ある有松絞りの染め上がる現場の光景など、風土色ある作品も光っている。
四葩(よひら)とう青い深みを持つ花は雨に濡れいてひと想うとき
遠くなるばかりひと恋う春霖の乗り換え駅の発車ベル聞く
地下鉄がひとひらの春押してくる別れは悲しみばかりではない
ほつほつと甕の底より湧く気泡藍の生命の葛藤ならん
「立千鳥」創りしひとを偲び見る藍の絞りを飛び翔つ千鳥
藍染めの色と真青の空の色溶け合う町の祭り始まる
着脹れてそれでも寒き朝市に妻に供える黄薔薇購う
セーターは妻の遺しし温かさ二人の春を着て街をゆく
山田峯夫さんのますますのご健詠を心よりお祈りしております。