2016年8月1日(神谷 由希)
今年、関東の梅雨明けは異様に遅く、7月28日にようやく「梅雨明けと思われる」という発表があった。九州での大雨や気象のみならず、花火見物の人たちにトラックが突っ込んだり、施設での殺傷事件、国内外での様々な騒擾は、私達に何を示唆するものだろうか。2015年、FacebookのCEOマーク・ザッカーバーグが、生まれたばかりの愛娘に宛てた手紙の中で、次のように書いている。
〈まず未来がどうあろうと技術的な進歩は劇的であり、我々はあらゆる分野でこれを享受する。それと共に我々は信じる。すべての生は平等であり、将来に渉って、よりよい生を生きねばならない〉
また、人々の生まれた事情、家族、国家によって、その機会が失われる事がないようにとも。革新的な技術の発展の前に、もう一度私達が、深く思いを至さねばならない点であろう。
結社誌七月号より。
夢をみる日と見ない日を繰り返しいつか私も老い人になる 早智まゆ季
作者の見る夢とは一種の白昼夢、深奥にあるあこがれの象徴と思われる。人は自らの夢に搦めとられて、いつしか年を重ねていく。〈老い人〉の表現は、単に年令を言うものではなく、自分の中で死んでいく渇望と捉えてもよいかも知れない。やわらかな表現ながら、読む者の思に迫るものがある。
おじさんがおばさん化しておばさんがおじさん化せり古稀の楽園 山下 浩一
連作「ひと握りの悟り」から最後の一首を引いた。言葉の反復が、稍もすると狂歌風になって終いかねない所を、結句が救っている。近頃は「アクティブ・シニア」なる表現も生まれたが、集団となると外見はいざ知らず、内容に於て性差がなくなって来ているような気が、時としてする。〈古稀の楽園〉とは、そんなシニアの集まる場所であろうか。皆、表題にある〈悟り〉のようなものを求めて、活動しているのだろうか。それにしても、作者の焦らぬ心境が窺われる愉快な作品。
見しことのなくて知らざるものあまた眼を病むわれの手の上に種子 蟹江 香代
色々な意味に受けとれる作品である。上句はよく分かるが、下句の〈われの手の上に種子〉の部分が、分かるようで難しい。手で触れた時の感覚とすれば、〈上〉がそぐわないし、手に載せられた種子の手ざわりとすれば、情況が今ひとつ読めない。只、作者が触感によって多くの事物を知る方と思うと、〈手の上の種子〉が活きて来る。種子と言う、ある不分明なものの始まり、その触感から、不思議な生命力まで感じさせられるような気がするのである。
声失せし君が妻の手に綴る文字は詩のようにある 痰吸引 花 菜菜菜
レスピレーターとふ人工呼吸器に命託すも喘ぐ患者(ひと)の〈生きたい〉 同
重篤な患者の世話をする作者、又その周辺の人々の情景が、連作によって浮かびあがって来る。抄出の歌は、気管切開された方の切実な、しかも美しい姿であろう。結句を作者の医療行為できっちりまとめているのが、印象深い。どんな状態にあっても、人は〈生きたい〉のであり、生きようとするのが、改めて心を打つ。特に最近の障がい者に対する卑劣且つ残忍な事件を思う時、これ等の作品は多くを語りかけて来る。
今月のTopicとして、「短歌研究」七月号より、「明星研究会・鼎談再録」をとりあげたい。〈与謝野晶子が愛した『源氏物語』〉と言う命題の下に、松平盟子氏(プチ☆モンド)の司会によって、大沢優子氏(中部短歌)、古谷円氏(かりん)、米川千嘉子氏(かりん)の三氏が交々語る。結社かりんに属するお二方と違って、大沢優子氏は我等の結社、中部短歌からの登壇である。是非、中部短歌の皆様に購読していただいて、結社の盟友の活躍と、その内容を知ってほしい。大沢氏は、言葉の問題、『源氏物語』中に使用される明治の書生言葉から始めて、恋のあり様、どんな恋にせよ不変のものとは言えず、かつ「帚木」の空蝉にことよせて、恋に於て、自由、対等でありたいと言う晶子自らの情熱を語り、古谷氏は『源氏物語礼賛』から、巻名歌について多くを述べられた。米川氏は、晶子の歌人、あるいは文学者としての見識、浪漫主義の理解、傾倒について、豊かな学識を披瀝された。それぞれに好きな源氏の作中の女君から、「幻想」の定義まで、多岐にわたる談話が続いたが、時間の制約の中、誰もが知る古典文学に、更に近づく事のできた実りある鼎談であったと思う。