2013年5月15日(長谷川と茂古)
先月、肌寒い日が多かったせいか、いつもはゴールデンウィークに咲く薔薇の開花が遅れている。とにかく病気に強い種を選んで、花の色まであまり考えずに植えたものだから、咲き揃うと庭が、どピンクになる。持ち主がみるのも恥ずかしいくらいのピンクである。10年近く育ててきたので、当然愛着はある。けれど咲くとこっ恥ずかしい、でも会えてうれしい、といった複雑な心境になるまで、あと少し。
結社誌5月号の特集は、「春日井建の固有名詞」。9名の書き手が挙げたのは、思い出深い場所「伊良湖岬」、「コクトオ」・「フレディ・マーキュリー」といった嗜好。病と闘うさなかに詠われた「タンタロス」・「プロメテウス」などである。特集は、もう一つあって毎月4名の十首が掲載される。
ケセは終北、マは江湾の謂なりと気仙沼の翁は教へくれたり 村井佐枝子
みづぎはに立つうすみどり 復興のなかばに逝きし人を思ふも 同
「気仙沼」という名の由来がアイヌ語とは知らなかった。この知識を授けてくれた方は、もういない。二首目の「うすみどり」は不可視のものだろうか。亡き人の存在の気配、記憶が集約されているような感覚である。
握りても握り返さぬ友の手に残る温みの命はわずか 纐纈 典子
鉢植えのアメリカ芙蓉形見とし春陽の注ぐ庭に移しぬ 同
こちらも挽歌。アメリカ芙蓉を友人にかさねて、春のやさしい陽射しにあたるよう場所を変えている作者。行為そのものは、鉢を日当たりのよい場所に移しているだけだが、歌にすると心情が加味されて特別な鉢となる。
十五歳進路自分で決めたいと女孫頑張る黄水仙咲く 近藤 恭年
学友のエースの投げる返球はいつでも胸の真ん中に来し 同
お孫さんの進路についての出来事から、自分の十五歳に思いを馳せる作者。現代にしてみれば、自分の進路を自分で決められないことがあるのかと思うが、長男は家を継ぐべし、という時代だったのかもしれない。二首目、「いつでも胸の真ん中に」来たという学友の球。強い信頼関係で結ばれていたことを表している。
奥甲子の雪解け水の流れはやし遥かな過去を呼び戻す音 菊池 良江
叶はじのしきふる中を少しでも担ぐ荷軽く春風を待つ 同
奥甲子は「おくかし」を読むのだろう。検索すると、日光国立公園白河温泉郷が出てくる。「甲子(かし)」、「はやし」の「し」の音がリズムを生む。この「春を待つ」一連は、雪深い郷で暮らす冬の厳しさ、節分を過ぎて春が待ち遠しい様子が詠われている。「担ぐ荷」という生活に根差した言葉が生きている。
続いて、「短歌往来」5月号より。
口遊む〈ひよつこりひようたん島〉の唄われの人生(ひとよ)の応援歌なり 渡 英子
なんの鳥か鳴いてしづかだ千駄木のメエトルにあはむ夢のつづきに 同
連作「夢の畳に」から。「ひょっこりひょうたん島」といえば、〈泣くのはいやだ笑っちゃおう、進め~・・〉、である。いつだったか、残っているフィルムを放送していた時があった。ドンガバチョが一人浜に出て、蟹にはさまれたあと、確かこうつぶやく。「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」。二首目、「千駄木のメエトル」とは、森鷗外のこと。上句は「鷗」をよぶような詠い出しで、技ありの一首である。