2016年8月15日・9月1日(長谷川と茂古)

今年のお盆は、久しぶりにお休みをいただきました。

オリンピックの夏、各競技もさることながら、開会式と閉会式の演出に目を惹かれた。人がビルの屋上をジャンプしていくようなショウや、安倍マリオの登場。もう少しマリオの服を着た姿をみていたかったが。4年後の東京オリンピックではどのような演出になるのか、楽しみだ。

歌評は、結社誌8月号から。

あかねさす昼を徘徊するための晴雨兼用傘を掲げて    菊池 裕
〈無我〉思ふ故に〈無我〉在りそのやうな戯言ありて雑炊を食む   同

「晴雨兼用」連作中の二首を挙げた。「徘徊」は、実際には夜のことが多いように思うが、「傘」をもってくるための「あかねさす」、(傘をさす)、という言葉遊びだろう。よって「あかねさす」は「昼」と「傘」を引き出している。晴雨兼用の傘は、女性ものが多いはずだから、小さめで明るい色の傘を掲げて街中をゆく、少し恥ずかしそうな作者を想像した。二首目、無我の境地とは、当人が「無我」を認識しているはずである。「無我」を認識している「我」なんて矛盾しているのではないかと言っているのだ。それを正面からではなく、「戯言」としてずらして言うところが作者ならでは。

〈めそめその頃〉に行くよと君告げて約束違へず来る夕つかた   洲淵 智子
集落のありたる証残り火のごときポストのその朱の色は        同

一読、童話のような印象を受ける。「めそめそ」という言葉の響きからかもしれない。夕方は逢魔時だから、「君」は人ではないような読みもできる。初句の「めそめその頃」がとてもいい。二首目、喪失感を詠う一連は、ダムに沈む集落が中心となっている。やがて沈むであろうポストの、その「朱の色」を掬う。集落の命のともしびのようでもある。

供華の中に一際冴えたる黄の百合は御堂に坐しし人の目を惹く   平野 昌子

一読、なんでもない景色を素直に表現されている。「御堂」といういつもの場所とは異なる、すこしうす暗いような空間に、いきいきとした黄色の百合が存在感を放つ。「人の目を惹く」この、黄色の百合についてもっと踏み込んだ表現に挑戦してもいいかもしれない。

熱の児を預けて職場に向かう娘(こ)の心預かり孫の守りせり   國分 徳子

「娘の心」を預かったとする表現がとてもいい。孫の御守をする歌は大変多く、またかと思うが、この歌は別。親子の信頼関係はもちろん、作者の、孫を預かる責任感と、娘さんを心配する気持ちがくみ取れる。

窓辺より蜘蛛を逃がして晴れやかなはつ夏の朝深く息する   柴田今日子

蜘蛛を逃がすという行為に、朝の清々しさも倍増する。天気も、より晴れやかさを増しているようだ。深く息をして、一日の始まりを迎えた気持ちがとてもよく伝わってくる。

総合誌は「歌壇」9月号、尾崎左永子の「鎌倉雑唱」から引く。

還り得ぬ時の掟のまざまざと脚衰へてなほ螢見に往(ゆ)く (妙本寺)
存在はかく短小の光にて螢の消えし宵闇ふかし
半夏生の末葉(うらば)の白の極まれる雨の夕べにひとり還り来
ものを書く夜半に亡き娘(こ)のセーターの臙脂いろの背見えし錯覚
命終(みやうじやう)は予告なく来んと思ふにもあはれ炎いろの花カンナ咲く

初夏、普段の生活から街へと出かけて帰ってきた様子が描かれている。四季おりおりの行事を楽しむ事も随分なくなってしまった現代でも、螢狩りを楽しんでこられた作者。脚の衰えに過ぎてきた歳月を思いながら、今年の螢を見にゆく。闇に浮かぶ小さなひかりの存在に、ひとの生をうつす。「まざまざと」に実感がある。「乗換へを告ぐる声さへ物憂きを雨季の都会へ赴くわれは」と、気は乗らないが出かける必要があって、車中にいることも詠われている。三首目、用事も終わり夕方帰宅したときに、半夏生の白い葉がとても鮮やかに視界にはいった。ほっとすると同時に、一仕事終えてすっきりとした気持ちが伝わってくるようだ。霊感の強い時期があったという作者。夜半まで執筆を続ける作者に、亡くなられた娘さんがふっと見えたような気がした。「臙脂いろ」のセーターはお気に入りのものだったのかもしれない。燃えるような赤いカンナ。突然、命の終わりがくることを思うと、生命力にあふれる赤も、「あはれ」と感じる。

歌評(月2回更新)

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