2016年6月1日(大沢優子)

五月下旬、岩手県北上市の詩歌文学館で開かれている「塚本邦雄展」を観てきた。その生涯を六つの展示コーナーより通覧でき、厳選された資料が歌人とその生活を生き生きと語っていた。毛筆で流麗に書かれた豪華な歌集を眺めながら、一首の占める空間に魅せられた。自身で録画したビデオテープに貼られた手書きのラベルもとても面白く、購入したテープのなかに『赤毛のアン』があったことにも驚いた。

結社誌5月号より

時来れば死は平等に訪ふといへ夏樹静子を悼みてやまず   佐野美恵

五時間に及ぶ手術ののちの身は賜り物と今朝また思ふ      同

著名人の死を悼むことは案外むずかしい。1938年生まれで、今春亡くなったミステリー作家に寄せる哀悼には、ほぼ同時代を生きた作者の、様々な感情の揺れがあったと想像されるが、上の句の静かな感慨を受け、あまり深く立ち入らない一首により、却って素直な悲しみが伝わる。自身の大病を詠んだ一連のなかで、人間の生死へのまなざしが澄んでいる。

指し棒の示しし先は朧なるリングと見ゆるランドルト環   日比野和美

視力検査でCのどの方向が欠けているか、を言うことによって判定する方法に用いられるのがランドルト環である。作者は視力があまり良くないのだろう。「朧なるリングと見ゆる」に、視力のよくない身としては、いかにもと共感を覚えた。

繁吹く雪古里の山に忽ちに音なくあへなく吸はれてゐたり   水上令夫

指からめ歩みてゐたる妻とわれと降る雪に匂あるに驚く     同

激しい雪が、人に厳しい顔ばかりを見せるわけではない。甘やかに二人を浄化し、外界から静かに隔てるものとして雪は提示されている。作者の精神が強く響く。古調であり、それゆえに美しい。

総合誌「歌壇」6月号より渡辺松男「波状」を取り上げたい

桑の葉へ這ひてゆく俺は指なのかひるまのゆめへゆびから入る

自らが虫と化した感覚には無論先例がある。だが、この歌で自己認識はあくまで「指」であり、指が自動で蚕のように動いている。下の句のひらがな書きと、ゆめ、ゆびの頭韻の妖しさに、引き込まれる。

臥して吾は低地の小沼日のうごき追ひていちにちをはる眼の球

荘子とかいい感じにてたまねぎの皮のうす茶にかわきて剥ぐる

「波状」一連が一日を臥して過ごす作者の、「ゆめ」を詠んでいるのだろう。「寝る」「覚める」のけじめのない日々が、ゆめの領域をじくじくとひろげている感じがして、なぜかその夢の世界を共有している気持になれるのが不思議だ。夢と付きすぎのような荘子が玉ねぎとの取り合わせに、いい感じの軽みを帯びている。意味の世界がくにゃりと変質しながら、剝がれた玉ねぎの迷宮へ確かな韻律がみちびいてゆく。

歌評(月2回更新)

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