2016年1月1日(長谷川と茂古)
新年あけましておめでとうございます。うるう年の今年は8月にリオデジャネイロでオリンピックが開催される。また、テレビに釘付けになりながら、世界のさまざまな選手の活躍をみることになるだろう。新種目として採用されたゴルフと7人制ラグビーも楽しみだ。
さて、結社誌1月号の歌評をと思って待っていたのだが、今年は4日になってもまだ届かない。そんなわけで、2015年12月号の誌面からひく。
桃印燐寸擦るとき鼻にくるにほひはとほき思慕のせつなさ 大塚 寅彦
思ひ出のひとは遥けき雪嶺の凛(すず)しさをもて空に微笑む 同
このごろは、マッチを使うことも少なくなった。筆者の子どもの頃は台所に徳用の箱に入ったマッチが置いてあったものだが、調理器具は電気になったり、火がつきにくいコンロというのもなくなると、マッチの出番はあまりなくなってしまった。外でバーベキューをするときか、ろうそくを付けるくらいだろう。マッチを擦るときのツンとくるにおいは、硫黄が燃えたときにでるもの。プルーストの『失われた時を求めて』にある、紅茶にマドレーヌを浸したときの匂いが幼少期の記憶を呼び覚ますのと同じように、マッチに火がついたにおいが作者の記憶の扉を開けたようだ。二首目、人は風景にこころを映して見ることがある。「雪嶺の凛(すず)しさ」とあるから、作者の尊敬する人かもしれない。行き詰まった時、どうすればよいのか問うて、答えがあるような、ないような。結句の「空に微笑む」はどこか、アルカイック・スマイルを思わせて深みがある。
歯ブラシに血滲みおり平成と昭和に裂かれつつ生きる日々 吉村実紀恵
若者の保守化を憂う団塊の世代は糧とせむ若者を 同
一首目、二句の六音が気になった。「血」のあとに一拍あると思えばいいのかもしれない。もしくは「血は」と助詞を入れるのはどうだろう。昭和の古さも理解できるし、平成のゆとりも経験している作者か。年配の人たちと若い人の間で、「昭和」と「平成」どちら派でもない、職場での立ち位置に困る作者がうかぶ。「最近の若い者は~」と言い出すのは年寄りの特権である。困ったものだと言いながら、生き生きと話す様はまさに「糧と」しているとしか思えない。
秋だから少し淋しい貌しても許してくれるか写し絵の妻 山田 峯夫
あの日から空が変わつた目守(まも)られる様に感じる独居の生活(くらし) 同
奥様に先立たれて景色が変わってみえるような連作「秋彩の街」。一人になって自分のこころに向き合われている様子が伺える。いつも奥様が側にいるような気持ちが作者にあって、とても仲睦まじい御夫婦だったと想像できる。
続いて今回は、大久保春乃著、エッセイ集『時代の風に吹かれて。』(北冬舎)を紹介したい。大学での専門が被服学であった著者が與謝野晶子、岡本かの子らの近代短歌を中心に衣服に関する歌を採りあげ、時代背景とともに丁寧に読み解いている。たとえば、晶子の『春泥集』から次の一首、
秋の風針につきたる青き糸一尺ばかりひそかにうごく
を引いて、〈秋の風に吹かれて動いたのは、縫っている最中の針の糸ではなく、針山に休めた針から延びた糸だろう〉と鑑賞しながら、前田夕暮の歌〈君泣かばとおもふときに君泣かず言葉すくなに物縫ひてあり〉(『収穫』)を出して〈女はものを縫いながら心を静め、また心を矯めてはものを縫ってゆくものだ〉と、縫う行為について述べる。畳みかけるようにして、樋口一葉の『あきあはせ』の一場面から、〈寝られぬ夜なれば臥床(ふしど)に入らんも詮なしなしとて・・・・、何とはなしに針をも取られぬ〉心情を寄せる、といった具合だ。晶子について書きながら、同時代の歌や小説から風俗、習慣についてもしっかり読んでいることがわかる。三章では、「移りゆく時代のなかで」として外套、シャツ、手袋、足袋、靴下、懐とポケット、と歌による衣服の変遷を拾い読みするのも楽しい。