2018年9月1日(吉田 光子)

集中豪雨や台風、それに地震など、自然災害の続いた平成最後の夏であった。たいへんな思いをされた方々にお見舞い申し上げます。それでも、自然は歩みを刻み、朝早く差すひかりは少しずつ透きとおってきたような気がする。窓ガラスを通り抜ける光の粒子は、ひそかな秋の訪れを告げているかのようだ。夜空もまた、静かさを深めているように思われる。

冴えわたる秋の夜天や若鹿の額打ちて星は降るかと思ふ  春日井建『朝の水』 

では、結社誌「短歌」8月号より

お互ひを擽つたしと身をよぢる狗(えの)尾(ころ)草(ぐさ)の風を見てをり 
大塚 寅彦
どんぐりは目鼻あらざる侏儒(こびと)の頭(ず)まろびをりたり林の道に   同
幼年の海に拾ひし貝がらの滑(なめ)らなる白こころ映しし         同

一首目。互いに触れ合いながら揺れるさみどりの狗尾草、そこに「風を見て」いるのだと詠む作者の眼差しは、さらに遠くに注がれているように思われる。その視線の先にあるのは、懐かしい風景や温かい思い出、あるいは還ることのない切ない日々であろうか。結句の「風を見てをり」が、哀しいまでに清らかである。林の道に転がっているどんぐりを見つめた二首目。どんぐりは確かに帽子を被った侏儒(こびと)に似ている。童話のような世界が広がる一方で、心の揺らぎが滲む気配がすると思うのは私だけだろうか。目鼻がないことに、汚れを知らぬ純真さを読み取ることは可能であろうが、むなしさの象徴と受け取ることもできよう。また、芥川龍之介の作品に彼らしい箴言を綴った『侏儒の言葉』というものがある。ひょっとしたら、作者は転がっているどんぐりに様々な箴言を見ているのかもしれない。歌が秘め持つ深さをしみじみと思う。三首目には無垢な情景が温かく描かれていて、貝がらの滑らかな白さや触感がありありと伝わってくる気がする。幼年時代のほのぼのと柔らかなこころを、大人になるにつれ人は少しずつ手放してしまうのだろうか。つぶやくように置かれた「こころ映しし」という言葉が、読む者のこころをそれぞれの澄んだ時代へと誘ってくれるようだ。

桜花(さくらはな)咲きみつる街の銀行に来たりてひきだす葬儀の費用 古谷 智子
つぎつぎにわが名に変はるおとうとの住処の名義、預金の名義     同
運び来しかたみの二棹ほんのりと実家の部屋の匂ひをまとふ      同

六月号、七月号から続く挽歌は切なさにあふれている。ここに取り上げた八月号の三首は、淡々と事実を述べていることが一層大きな悲しみを呼ぶようだ。喪失の哀しみにひたる間もなく、つぎつぎとこなしていかねばならない手続き、そしてその合間にふっと生まれた空白、その時気づいた実家の部屋の匂い……。哀惜の想いが迫ってくる一連である。

蜘蛛ひかる紫陽花のへりおぼろげに梅雨をつれくる風と歩めり   米山 徇矢
そこへのみ枝へ日差しはあたりをり犬歯のごとく耀よふ楢の木     同

一首目には繊細な感覚が光る。蜘蛛は紫陽花のへりでみずみずしい光をまとい、作者は梅雨の気配をかすかに孕んだ風を受けて歩んでいる。二句切れが巧みである。二首目は、日差しがあたる枝へといったん焦点を絞ったのち、下句で一気に楢の木の全体像が示される。「犬歯のごとく耀よふ」という表現に、いきいきとした勢いと独自性があるように思う。

青梅を持ちくれし兄の地下足袋のしとどの露や草の香のする    樋田美和子
二十キロの青梅漬けて立つ香り部屋に満ちたり土用干し待つ      同

そろそろ、梅干しがおいしく出来上がったころだろうか。それとも、もう少し味がなじむまで待っておられるのだろうか。地下足袋のしとどの露や草の香、そして、漬けられた梅の香りなどがゆうらりと彷徨い出すかのような表現力が、素敵だ。

角川『短歌』九月号に「短歌の構造」について特集が組まれていて、総論として「韻文と散文の違い」を吉川宏志さんがひも解いている。それによると、短歌はもともと、長歌の末尾に付けられた反歌が独立したものなので、五・七・五・七・七という韻律は、長歌に由来し、五音の句には、意味性が薄くイメージや音感を豊かにする言葉(たとえば枕詞)が置かれ、七音の句に意味を担わせているという。そして、この五音と七音の質の違いは、意味性の強弱の揺らぎとなり、この二声構造が、短歌の韻文性を生んでいるという説をたてていた。そして、この後に発展的二声構造について述べられているのだが、それが私には興味深かった。

ほととぎす鳴くや五月のあやめぐさあやめも知らぬ恋もするかな    
よみ人知らず(『古今和歌集』巻第十一・四六九)

この歌のように、情景を歌う上の句の声と心情を歌う下の句の声とが響き合う二声構造があり、前衛短歌にも用いられ、さらには、文語と口語の二声の試行が最近の短歌に顕著にみられるという。

さざんくわはつばきの子なりそんなことどうでもよくてどつと咲き散る
馬場あき子『混沌の鬱』
一度だけ低い嗚咽は漏らしたりごめんわたしが青空じゃなくて     
大森 静佳『カミーユ』

文語に口語を重ね合わせることで主体の次元が変わり、さまざまな自己が内在する現代人の感覚をリアルに反映していると吉川さんは述べる。確かに、このような文語と口語の使い方は、場面や心情の転換をさりげなく導き、新鮮な感覚を呼ぶ。私は、今まで文語と口語が一首の中に混在することに、ためらいを感じていたが、それに関して論理的に見通すことをしていなかった。というか、できなかった。こうして、吉川さんの論を読んでいると、短歌は活きているんだなと思わずにはいられない。あるものは許されて残り、あるものは淘汰される。新しい衣をまといながら変わりながら、でも、源流をゆるがせにせず、短歌は今後も継がれていくのだろう。

また、中部短歌の堀田季何さんが、「俳句との違い」をこの特集で述べられていた。短歌と俳句の文体の長短は、濃度の違いを考慮せねばならないこと、そして、そのことを、渡辺白泉や寺山修二、西東三鬼などを例に取り、説得力を持つ論として展開されている。また、韻律における差異を語る場合、俳句をベースに語った方が解りやすいとのこと。それは、俳句には切れという機能が備わっているからであるという。切れの対象となる直前の語彙から一気に読者の連想を広げさせる瞬間性の効果に着目し、短歌の切れとは違っているとの明快な指摘があった。最後に「同じ韻文短詩であっても短歌は長過ぎて俳句的な切れを持てないが、だからこそ、一瞬で終わってしまわない『歌』になり得るのである」と締めくくられていた。含蓄に富んだ文章が胸にこだまする。

歌評(月2回更新)

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