2012年9月15日(吉田光子)

二学期が始まり、集団登校する小学生が見られる昨今である。元気に「おはようございま
す。」と、挨拶をしてくれる子。恥ずかしそうに小さくつぶやいて小走りに行く子。みんな健やかにと願わずにはいられない。また、朝の大気に涼しさが感じられるようになったせいか、庭を横切る野良猫の背がきっぱりと伸びやかだ。雲のかたちに、日暮れの早さに。そして、夜の虫の音に。確かに秋は近づいている。さまざまなものと静かに向き合いたい季節となった。
 では、結社誌「短歌」9月号より。

NGC224の光(かげ)われらが銀河といつ抱きあふ  川田 茂

アルファベットを歌の1音目に置き、順に詠まれた一連。今月号には、「I」から「P」で始まる8首が並んでいる。このような制約のある歌作りは難しい点も多いのではと思われるが、どの歌も苦しさを見せずそれぞれに詩的空間を巧みに紡ぎだしている。

そのうちの「N」で始まる歌がこの1首。わたしたちが命を育んでいる銀河系の近くにある渦巻き銀河はアンドロメダ銀河と呼ばれているが、別名を「M31」あるいは「NGC224」という。近くといっても約240万光年~250万光年離れているらしいから、たいていの人は、「どこが近いネン!」と心の中で突っ込むことだろう。でも、40億年後には、ほんとうに近くなるんだとか。地球がある銀河系とアンドロメダ銀河とは互いに秒速100キロで接近していて、いずれ衝突すると思われるのだ。40億年後に衝突したあと分離と衝突を繰り返し、60億光年後に1つの銀河に融合するという宇宙のドラマ。これを美しく短歌の詩型に詠みあげて、ロマンの漂う大きな世界を作り出すのに成功している。

アイヌ語の「夏の村」てふ岬にてエゾカンゾウを咲かせゐる風  本田伊都子

アイヌ語で「夏の村」は、「サク・コタン」。「積丹」の地名はこれに由来する。このことを取り込んだ手際が鮮やかで、歌の空気を優しいながらも洗練されたものにしているといえよう。以前、友人から積丹半島の神威岬の絵葉書をもらったが、紺碧の海からすらりと立ちあがった崖にはエゾカンゾウの花が咲き、息をのむような美しさだった。風が強い日が多いと聞くが、その風が花をより美しく健気に咲かせているのだととらえた感性もまた素敵だ。

次に、角川書店の「短歌」9月号から。

田螺にも鯉にもかそかな髭ありてゆふべ真水は匂ひもちそむ  川野 里子

「ゆふべ」とは不思議な時間。見える世界と見えざる世界が混然と行き交い、異界のささやきさえ聞こえてきそうな時なのだ。であれば、真水に匂いがたゆたい始めるのもまた、この時間なのだろう。かそかな髭が、淀んだ水底から匂いを運び、まったりと作者の心も包み込んでしまうのではなかろうか。

シェルターのように「敬語」をつかわれて牛タンネギ塩じんわりと噛む  俵 万智

一人息子と石垣島に住む作者は、福岡に出向き「君」を交えて3人の時間を過ごしたようだ。けれど、焼肉店での会話にはさりげなく敬語が使われて、距離感が拭えない。「シェルター」という比喩が寂しすぎるほどに決まっている。きっと、大人の賢さもずるさも気がつかないうちに身につけてしまった「君」なのだろう。歳月を生きるとは、つまり、そういうことなのかも知れないのだから…。牛タンネギ塩を噛みしめる作者の切なさに似た思いが、「じんわり」の一語にほのかに滲んでいるように思われてならない。〈タクシーのように乗り込む 家族なら助手席に我、うしろに子ども〉の歌も、28首の中に見られる。「君」は運転席で「我と子ども」は後部席と、まるでタクシーを利用するかのような乗り方でドライブをしたのだ。だって、家族ではないから。でも、ほんとうは作者は助手席に座りたかったのだろう。座る位置ひとつにも、揺れるこころが伝わってくる。〈ベランダから君が写真を撮りし海その日の青に染まる心は〉との歌が後半に置かれ、みずみずしい瞬間を切り取ってみせている。

歌評(月2回更新)

ページのトップへ戻る