2015年11月15日(吉田 光子)
すでにご存じの方が多いと思われるので書くのはためらわれるのだが、何でもない普通の
日であったはずの七月六日に、ちょっとした意味をみつけることが可能なのだという。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
有名なこの歌は作者である俵万智氏によって、「歌の実際の素材はサラダではなくカレー味の唐揚げであった」こと、そして、「サラダの爽やかさを演出するために七月を選び、七夕ではない普通の日にしたくて六日に決めた」ことが明らかにされている。けれど、ある時、丸谷才一氏から「あれは芭蕉ですね。」と言われ、彼女ははっとしたそうだ。松尾芭蕉には「文月や六日もつねの夜には似ず」という句があって、七夕の前日である六日も普通とはちょっと違っているよとのニュアンスを感じるということらしい。読み手の豊富な知識が、何でもないと思われた日付に陰影を与えたのである。また、英語の慣用的表現に「SALAD DAYS」がある。「我が青春の日々」とか「未熟だったあのころ」を意味するそうだが、「サラダ記念日」という語にはそんな思いが内包されているのではと問われたことがあるそうだ。シェイクスピアに詳しい小田島雄志氏にそう言われて、俵氏は、やはり、はっとしたという。「SALAD DAYS」はシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』からきているとのことだが、サラダ記念日の若々しい明るさに、かすかな憂いをトッピングさせた解釈と言えなくもない。歌と読者との出会いの在り方でその歌の持つ世界がいかに深まるか、そして、新たな広がりを見せるかを、これらのことは改めて我々に提示してくれる。
私自身の力不足に心が萎えそうになりながらも、しっかりと歌に向き合わねばと言い聞かせて、まずは結社誌「短歌」11月号から。
玄室のごときしづけさ半地下の画廊にみつる古代の光 古谷 智子
夢よりもなほ夢の夜の玄室に封じ込めたき画布の鮮血 同
読者は、赤の世界にすんと引き込まれてしまう。「玄室」の一語が放つ魔力が不可思議な空間へ運んでくれるかのようだ。谷 充央(たに みつお)という画家の個展へ足を運ばれて詠まれた一連であるが、どのような画家なのか、どのような絵なのかと、興味はつきない。美術に詳しい友人に聞いたところ、キャンバスの裏から白色や黒色を表面に滲み出るように塗り、その後、表に形を描き、さらにその上を赤で消すように塗り重ねていく手法が用いられているのだという。幻想的な奥行を感じさせる作品が多いそうだが、実際に見てみたいと強く思った。歌に画家の魅力を伝える力が満ちていればこそ、読む者をこのような気持にさせるのであろう。
何もかも大事なことを手放してアウトソーシングにゆだねたり 菊池 裕
業務を外部に委託することへの屈折した思いが、ひんやりと伝わってくる。仕事だけではなく、人生に投げかけられた一首でもあると受け取ることも可能だろうか。少しばかり自嘲気味に詠まれた上句には、苛立ちとも無力感とも後ろめたさともとれる思いがほのかに見える。けれど、そこには呑み込まれることなく踏みとどまろうとする強さもまた隠されているように思われる。四句から五句への句またがりは、作者の心の引っ掛かりを喘ぎを暗示していると言えよう。時代に安易な折り合いをつけることを拒む作者の姿が、歌の向こうにくっきりと立ち上がる。
雲間より月影差して雪の野の金砂まかれしごとく光りぬ 井上 清一
ふるさとの四季を丁寧に掬い取った一連から、冬を詠んだ一首を取り上げたい。優美な言葉の流れに品性を光らせて、月光にきらめく雪原が歌われている。端正なこの歌から、作者がふるさとに思いを馳せるときの、静かな目とたましいの平安を思わずにはいられない。
夕されば言葉も昏るる心地せり秋の着熱が泥(なず)む窓辺の 篠原 偲
あたりが薄暗くなってゆく時、言葉までもが暗さに紛れ、言霊はもはやあいまいとなり消えゆくかのような感覚に陥るのだろうか。秋陽の温もりが残る窓辺はすでに暗みを帯び、心もとないままに作者はたたずんでいる。独自の歌空間の手触りが発信されている。
次に、角川書店の月刊「短歌」11月号から。
たうとつに蝉の鳴かない朝が来て公演はもうはるかな柩 岡部かずみ
尖頭はさびしきところ羽根をもつ影がときをり降りてなぐさむ 同
あんなに激しく鳴いていた蝉の声がぴたりと止んで、亡骸ばかりが残された公園、このように捉えた感性が眼目であろう。二首目はヒマラヤ杉の頂上だろうか。鳥が時折なぐさめに降り立つという。「さびしい尖頭」は作者の心にもあり、鳥の慰めを待っているのかもしれない。
さて、この「短歌」11月号誌上において、第61回角川短歌賞の発表があった。中部短歌会の雲嶋聆氏の「硝煙とバター」は予選通過作品として最終選考に残ったことをお知らせしたい。ますます活躍されますように。