2016年2月1日(長谷川と茂古)

一月は、中国株急落や北朝鮮の水爆実験からはじまり、不穏な年頭だなあと思う。ベッキーや「鑑定団」の石坂浩二降板、さまざまなニュースが続くなか、小保方晴子さんの手記が出版された。タイトルは『あの日』。うーむ。その日のことよりも、『それでもSTAP細胞はあります』という本なら、手に取ってみるかな。さて、あっという間に半月が過ぎた。結社誌は一月号から。

長男の上にもひとり男の子いて自立する気のさらさらに無し   大澤 澄子
本読めど歌生まれ来ず眠られず大メロンパン食べてしまえり     同

「長男の上にも」いる男子というのは、ご主人のことだろう。食事、洗濯、掃除といった家事はすべて作者が担っている様子がよくわかる。二首目、「大メロンパン食べてしまえり」には笑った。歌ができなくて、眠ることもできず大きなメロンパンを食べちゃった作者に脱帽。

タイマン!と言へば寝ころび腹を見すリリーはお座りも待てもできない  安藤なを子

「リリーとわたし」の一連は、作者が歌会からの帰りにダックスフントと出会い、変わってゆく環境が描かれている。「タイマン」というと一対一を連想するが、腹を見せることを考えると「怠慢」なのかもしれない。しかし、何故作者が「タイマン!」と言うことになったのかが気になる。犬との楽しい生活がうかがえる歌。

三方より宗達、光琳、抱一の風神雷神気を圧し来る      仙田まゆみ
嬉嬉として入りゆくわれとすれ違う博物館を出てゆくわれと    同

娘さんに誘われて、京都国立博物館へ出かけた際の連作「京の時間」。琳派誕生400年を記念して開かれた展示である。一首目、歌を読むだけでも圧倒される思いがする。三方からの「風神雷神」図なんてなかなかお目にかかれない。二首目、これから見る楽しみに期待しながら入場する作者と、見終わって館を出る作者を並べている。館を後にするとき、これから見る人たちの行列をみて、少し前の時間、その行列にいた自分を思ったのかもしれない。別の時間の作中主体を同列に置く、おもしろい歌だと思った。

ところで展覧会といえば、昨年多くの入場者を動員した「春画展」(東京・永青文庫で開催)が、2月6日(土)から京都の細見美術館で開催される。筆者は見に行けなかったが、さまざまなところで話題になっていた。ちなみに18歳未満は入れない。

値下げパンふたつ抱えて駅を出る終の住処を持たぬゆうぐれ  吉村実紀恵
トロイメライくり返し聴く一生を錯覚のまま終わらせたくて    同

一首目、「終の住処を持たぬ」とは、仮の宿(浮き世)という意味合いで読んだ。仕事帰りに寄ったスーパーで、値下げのパンを買って帰る作者。「ふたつ」で充分だとする暮らし方である。家族が必要なあれこれを袋いっぱいに買い物をするのとは異なり、自由な感じが漂う。二首目、シューマンの「トロイメライ」は「夢見心地」という意味。夢見るように暮らすのは難しい。作者も理解しているからこそ「錯覚」にとどまる。値下げのパンを買ったり、夢見心地は錯覚とする作者、どちらかというと現実的だ。

久久に墨をする朝わが歌を読み返しつつ秋の歌選(よ)る   梶田 祥子

とても自然な味わいの歌。力を抜いているが、すっと筋の通る感覚。朝の澄んだ空気に墨の香りが流れてくる。「校庭の檜の葉を入れ墨すりし書道教室の香のよみがえる」と続くのだが、檜の葉を入れて墨をする、という事をはじめて知った。どういった効果があるのだろう。ご存知の方は教えてください。

さて、次に中部短歌同人、堀田季何の第一歌集『惑亂』(書肆侃侃房)を紹介したい。歌人としてより、芝不器男俳句新人賞奨励賞受賞、海外における芸術家交流や朗読といった活動など、俳人としてのほうが有名かもしれない。

登校日より通院日多かりしわれの支へは夜々かはる夢
キリストと夢の階層旅すれば無人島には一羽のかもめ

「十歳」から引いた。江戸川乱歩が色紙に好んで書いたという「現(うつし)世は夢、夜の夢こそまこと」を思い出す。<現在、三十九歳である。この齢まで生きてゐられるとは想はなかった。>と始まるあとがきには、<數十の疾患が>あったことなども告白されており、幼いころから身体的にも精神的にも苦痛であったろうと想像する。二首目の「無人島」はベックリンの「死の島」がすぐに浮かぶ。20世紀半ば、ヨーロッパで流行った絵画だが、「かもめ」はいない。翼を持つものだから、自由の象徴と読める。一首目の「われの支へ」と通じるかもしれない。

トリスタンのごとく犬死するもよし疾(と)き雲はしる海の白波

中世の騎士伝説。オペラは有名だが、絵画のモチーフにもよく描かれる「トリスタンとイゾルデ」。この歌は、瀕死のトリスタンを助けることのできる金髪のイゾルデが、白い帆の舟に乗ってくるシーン。今風にいえば、重傷の夫を救えるのは元カノしかいないという設定、迎えに行ってもどる船に既婚の元カノが乗っていれば白い帆を、連れてこられなかった場合は黒い帆を上げて知らせてほしいという夫に、妻は元カノへの嫉妬から白い帆をみて、黒だと伝えてしまう。希望を断たれた夫は死へと旅立つ・・・、という場面だ。悲しみという意味を名に持つため、その最期はあらかじめ決まっていたのだろう。トリスタンの死と、舟を急ぎ走らせる白波や並走する雲との対比は無常観に包まれている。

ソルジェニーツィン少し知るため五日間『イワン・デニーソヴィチの一日』を讀む

一読、にやりとする歌。作家ソルジェニーツィンの本でよく言われるのは、『収容所群島』を最後まで読んだ人はいない、である。長いし、つらい。けれどデビュー作の、デニーソヴィチの一日を描いた小説なら読んでみるか、といった感じだろう。一日の話を五日間かけて、という遊び感覚。軽い歌がところどころあるのは救われる気がする。

死の影が寄り添う印象があるが、実は、惑い・乱れる、生の証でもある。内藤明さん、菊池裕さんによる『惑亂』書評は、五月号で。楽しみにしていただきたい。

歌評(月2回更新)

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