2019年4月1・15日(長谷川と茂古)
夕食のあとなんとなくテレビを見ていたら、CMに落語家の柳家喬太郎が出ていてちょっと驚いた。そういえば、NHKの『落語ディーパー』でも特集が組まれていたな、と思い出した。立川談春はドラマでの活躍も華々しいが、柳家喬太郎も演技派である。長いマクラもくせ者っぽさがあって楽しい、好きな落語家だ。落語ってどこか短歌と共通しているところがあると思う。古典が基本、古典を現代風に生かした新作に挑戦したり、全く新しい発想で挑む話もある。柳家喬太郎に「歌う井戸の茶碗」というのがあって「井戸の茶碗」を替え歌でつないでいくのだが、落語をミュージカルに、という発想があったのかと感心する。動画でみられるので、是非ご覧いただきたい。
というところで、結社誌三月号から。
過去よりのどれも今問ふ〈ことば〉なり陽に晒さるる古書市ゆけば 大塚寅彦
汚(よご)れめく日付捺(お)されて切手なるくれなゐの梅わが家(や)に来たり 同
咲いて欲しくなくとも桜は咲くだらう君逝く春の香をまた連れて 同
連作「過去」より三首。古書の青空市だろうか、ぎっしりと並んだ本のなかから手にとってぱらぱらとめくる姿が浮かぶようだ。温故知新といわぬところが肝。二首目、記念切手の種類も多く販売されている昨今、使うのが惜しいような美しい切手もある。紅梅の切手が貼られた手紙が届き、気持ちが華やいだのだろう。日付が捺されてなければ良いのだが、といった気持ちも伺える。三首目、君が逝ったときのことを思い出してしまうから、桜は咲かないで欲しい。そう願っても詮無く季節は巡り来る。「君逝く春の香」という美しいフレーズが心に残る。
まぼろしの船着場見ゆ品川に潮の香立ちこめている如月 吉村実紀恵
回遊魚あまた抱きて都市という水槽は年々深くなりゆく 同
魚らを左右に分かる改札のシンメトリーに寄り添いゆかな 同
潮の香を引き連れてくる男性(ひと)ありて心中の生き残りにあらずや 同
〈女医〉になれと父は言いたり〈医師〉ならば何かが違っていたのだろうか 同
「回遊魚」一連より五首を引いた。品川駅の風景から、作者自身の来し方を振り返るような連作となっている。旧東海道は海沿いの道であったが、埋め立てによってかつての風景は失われてしまっている。江戸有数の港であった品川港も然り、現在では屋形船が係留されているにとどまる。品川というと、水族館がすぐに連想される。作者は水族館を詠わずに、行き交う人々を回遊魚と表現し、都市(東京)を水槽に見立てた。「深くなりゆく」とは、地下鉄などの交通網がより深い地下へと開発されていることによるだろう。大江戸線が深いというが、筆者がよく利用するつくばエキスプレスはそのまた下を通っている。四首目、落語に「品川心中」というのがあるが、この歌の下敷きになっている気配はあまりしない。すれ違う人々のなかで、はっとした一瞬を留めた歌として印象に残る。江戸から東京へと時代が移り、現在も変化し続ける品川という地の喚起力をうまく歌に引き入れ、都市に生きる女性の姿を描いた一連、読んでいてとても面白かった。
結社誌3月号の特集は、「本誌詠草でたどる平成」と鷺沢朱里第一歌集『ラプソディーとセレナーデ』書評の二つ。結社誌のなかで、平成にあった出来事や文化、カルチャーを詠った歌を採り出し、振り返るというもの。『ラプソディーとセレナーデ』書評は、生沼義朗さんと雲嶋聆さんの二篇。一首鑑賞は、石川美南さん、古谷智子、杉本容子、佐野美恵、村井佐枝子、安倍淑子さんら六名による。以下に、引かれた歌をいくつか紹介しておく。
鷺沢朱里歌集『ラプソディーとセレナーデ』より。
信長の美濃攻めゐたる屏風より銀箔(はく)はがれしみれば姫うかびたり
パウダーブルー、光の粉を溶きし水(みづ)面しばし見上げん海底(うなぞこ)の途に
狩野永徳その連嶺の高嶺(たかね)より見下ろすわれを下界のわれを
潮風をその手に掬(すく)ひ飲むしぐさわれも真似して両手で飲みぬ
ごはんだよチューブに柔(やは)き冬の陽のひかりも混ぜて介護する日々
ひつぎにはわが書を容れよと幾枚も幾枚も字をわれとえらびぬ
無弦琴野に朽ち果てて掻き鳴らす風いくたびも胸を野としき
じやがいもの肌の白さのハクハクと育ちたりしを茹でこぼしをり
仔豹らは峰の真上のさらにうへのゼニスの青を雪崩前見し
突く喉は父か夫かはたわれかその刃螺鈿の黒銀(こくぎん)に濡れ
大仏開眼その下に舞ふ迦楼羅迦楼羅わが身滅ぼす火は近づきぬ