2019年1月1日(雲嶋 聆)

結社誌十二月号から。

背に負ふはつひに柩となり果てしエスカルゴ引き出して食まれつ  大塚寅彦

結局、この蝸牛は食べられるために生きていたのではないか、一見すると、そんな感慨を漏らしているだけの歌にも思われるが、その実、生に内在する死の論理とでもいいたくなるような、生きることと死ぬことの関係そのものを一首で表現しているのではないだろうか。この蝸牛は生前、柩に例えられた殻を背負って生きてきた、つまり、自らの死を背負って生きてきたのである。そして、ただ死ぬのではなく、食べられて死ぬのである。食べられるということは誰かが生きるための糧となるということだ。このように一首の中で生の行き着く果ての死と、生と死の交錯する場としての食事とが同時に描かれており、これは生きることと死ぬことの関係そのものを表現した歌といえよう。

また、下句の句跨りもエスカルゴの身を殻から、くるっと引き出すときの動きを表現しているように思う。

帰宅時に下ばかり見て轢かれそうテストなんかで死にたくないよ  西田くろえ

テストの点数がよくなかったのだろうか、しょんぼりと歩く作者の姿が浮かび上がってくる。落ち込んでいるけれども、だからといって死ぬほどではないと、作者は極端に感傷に溺れることを潔しとしない。

文学に触れていると、ともすれば感傷に陥りがちになるところを、下句で「テストなんかで死にたくないよ」と跳ね返しているところに、爽やかな印象を受けた。上句で「下ばかり見て」「轢かれそう」とネガティブなイメージを重ねている為、なおさら下句の力強さが引き立っている。

スピノザの書を読みおれば蝶ひとつ『神』とう文字に来りてとまる  清水美織

スピノザの書は『エチカ』だろうか、どこか崇高な感じのする一首である。蝶と死者の類縁性を語ったのは誰だっただろうか。あるいはそこまでの事は誰もいっていなかったのかもしれない。とまれ、蝶が現実の世界とは別の世界に属するものとして、とりわけ近代以降洋の東西を問わずに表現されること度々にわたったことは事実である。

どこからとなくやってきて、神という文字の上にとまった、この歌の蝶は、その文脈で捉えると、天使のようにも思われてくる。神から遣わされた天使が、蝶の姿をとって、作者の前に現れた、そんな象徴的な世界が浮かび上がってくる。スピノザという哲学者に纏いつく汎神論・無神論のイメージがその象徴世界にアクセントとして働いている。

はよ はよと冷蔵庫にまで叱られて暑い一日はいらいら刺蛾  鈴木淑子

とてもコミカル、かつリズミカルな歌で、元気がないときに読むと、くすっと笑えて元気をもらえそうな気がする。夏の暑さを背景とした歌で、たしかにあの蒸し暑さの中に閉じ込められていると、何もやる気が起こらず、それこそ本来ものいわぬはずの家電にまで急かされ叱られそうな気持ちになる。結句も刺蛾という昆虫の名前を「いらいら」の後ろに続けることで、作者の感じている苛立ちに形が与えられているといえよう。

一時期、写生とは何か、ということを考えていて、その提唱者であった正岡子規の文章や子規についての文章を読み漁ったことがあった。子規の写生の主張には、近代的な自我の目による雑歌の見直し、みたいなものが含まれているのではないかと思った。子規が高く評価した源実朝は季節の歌よりも雑歌に良い歌が多い気がするし、橘曙覧も雑歌に分類されるような歌を多く作っているように感じられる。個人的には、子規を水源として、俳句、短歌、散文の世界に近代文学の核としての写生の方法が、それぞれ、虚子、左千夫、漱石を通じて継承されていったように思う。すこぶる大雑把な文学史の把握だが。

そのような大きな流れにあって、長塚節は少し異なるタイプの人なのではないだろうか。もちろん、子規の愛弟子であり、写生による作歌活動を展開した歌人ではあるけれども、彼の作る歌は、その後の近代短歌から現代短歌へと連綿受け継がれてきた自己主張・自己表現の考え方とは異質の世界を作り上げているように思われてならない。作家藤沢周平は小説『白き瓶』の中で、伊藤左千夫との対立として両者の行き方の違いを描いていて、興味深かった。
もしも「私」が近代思想の産物であるとすれば、その「私」(実際の作者であれ、虚構としての作中主体であれ)を主張する近代短歌の方法は、果たして今後も有効なのだろうか。『白き瓶』は歴史小説の体裁をとっているが、主人公である長塚節を中心に様々な文学者の書簡や文章を紹介しつつ展開していく為、評伝に近いともいえ、そこからは当時の歌人たちの試行錯誤の様子が浮き彫りになっており、今一度、従来の方法を批判的に見つめ直すべきなのかもしれないと改めて思った。

歌評(月2回更新)

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