2015年8月15日(長谷川と茂古)

戦後70年。メディアでも短歌総合誌でも、それぞれに特集が組まれている。先日テレビで映画「永遠の0」を観た。特攻隊員であった祖父の生き様を孫が辿っていく、という物語。筑波海軍航空隊のシーンをみていると、予科練の歌がぱっと浮かぶ。

若い血潮の予科練の
七つボタンは桜に錨

続きの歌詞はよく覚えていない。最初のこの部分だけ。調べてみるとこの歌詞は西條八十による。正式な題名は「若鷲の歌」。なんでも東宝映画「決戦の大空へ」の主題歌をたのまれ、土浦の航空隊に行ったときのこと。満開の桜の下に立つ美しい少年の軍服姿の絵を見て、ただちに初聯の歌詞ができたという。軍歌だからメロディアスな歌ではないのに、不思議と歌詞の流れのよさがあって、覚えやすい。そうか、西條八十だったのか。
さて歌評は結社誌8月号から。

エノラ・ゲイよぎりし空の延長に今年も夏は運ばれて来ぬ    雲嶋 聆
怪獣のごとき名なればピカドンの響きを少年われは好みき      同

一首目、戦後何年という言い方がいつまで続くのか分からないが、延長であることは確かだ。「エノラ・ゲイ」というのは機長の母親の名前、落とした原爆は「リトル・ボーイ」。ふん、アメリカの遊び感覚だ。二首目。少年の頃のことであるから、原爆のことなど分からない。ピカドンという響きは、カネゴンやイグアノドンと同じような感じで聞こえたのだろう。

「イネえ科」と問うやに戦ぐ里山に田の風まとい覗く竹の子   中山 哲也

「竹の子」と題した連作。竹の子で始まって、玉ねぎで終わる。筍は田植えの前後あたりに出てくる。「いねえか」と問うのに「イネ」を持ってきた。田んぼがあって山側に行くと竹林があるのかもしれない。「竹の子」という表記が効いている。童が覗いているような感じがする。

藤も見ず菖蒲も忘れ物捨てる置き場所捨てる苦難の春なり    神谷 治

断捨離の一連の第一首目である。どうして捨てる気になったのかは分からないが、物にまつわる記憶が捨てられない。物と記憶は別物なのだが、職場の記録や家族のアルバムは作者の生きてきた証。捨てるものを選んでいるうちに思い出の迷路にとらわれてしまったようだ。花を愛でる余裕もない。

さて、総合誌は「北冬」No16北冬舎20周年記念号を取り上げたい。井辻朱美責任編集、「<井辻朱美>について考える」と、「<現在の短歌>について考える」の二つからなる。執筆者も藤原隆一郎、穂村弘、東直子、佐藤弓生、黒瀬珂瀾、小林久美子、山田航、石川美南、、、と豪華なメンバー。なかでも面白かったのは、井辻朱美の「〈型〉の挑戦または芝居の〈外〉と〈内〉」である。今年の春に上演された六本木歌舞伎について書かれている。脚本が宮藤官九郎、三池崇史演出というもの。タイトルは「地球投五郎宇宙荒事」。井辻はこれを三回観に行ったそうである。なぜ、どこに惹かれたのかが書かれていて、一気に読んでしまった。短歌創作者ならば、歌舞伎や能といった〈型〉を持つものに興味があるだろう。

 

すなわちカブくために必要な〈型〉とは、現実から身を守るためのものというより、現実を押し返し、突っ張り、攻め入るためのものである、ということ。

 

終わりに近い一文を引いた。昨年出版された井辻の歌集「クラウド」のあとがき<「詩」の火力>にも通じる。できれば全文紹介したいところだが、是非読んでいただきたい。クドカンが手掛けた歌舞伎のなかで「大江戸りびんぐでっど」は観たが、「地球投五郎宇宙荒事」は行かなかった。ああ、行けばよかった。

歌評(月2回更新)

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